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月光舎稽古場取材
2001年9月第23回公演
「啼く月に思ふ」(なくつきにおもふ)
@新宿タイニイアリス

だって、小松杏里ですよ。みんな知ってますぅ? 私は知ってますよ。80年代の人間ですから。いやー、びっくりしたぁ。

その小松杏里(こまつあんり)は、ちっとも変わらず、熱く過激であった。もう、いい年だもの、のーんびり稽古しているのかと思ったら、と、とんでもない。とーんでもない。大声こそ出していなかったけど、ぶーぶー言いたいことを言いまくっていた。緊張感の漂う稽古場であった。・・・噂と違うじゃんかぁ。若い子集めて、細々とやってるって噂を聞いてたんだけど・・・。

演劇の歴史においては、「伝説の舞台」というものがある。その時代時代で、見逃した人を口惜しがらせる舞台だ。唐や寺山の時代にもたくさんあったろう(知らない)。つかさんの時代には風間杜夫の「広島」や柄本明の「蒲田」などがそうだろう(見てない)。

そして、80年代前半においては、作・高取英、演出・小松杏里、主演・美加理の演劇舎蟷螂の作品「聖ミカエラ学園漂流記」(@明石スタジオ)は、まさにその一つに数えられる舞台だ。間違いない。80年代前半と言うと、第三舞台の岩谷の「デジャ・ヴュ」や「モダン・ホラー」などがあるが、その過激さ、猥雑さ、情報量の多さにおいて、特筆すべき舞台であった。(あたしゃ見たもんねー)

1976年結成の演劇舎蟷螂は、1988年に解散している。ミカエラの初演は1982年頃だから、ミカエラを生み出した後も、それ以前と同様に活動していたわけだ。だが、筆者の印象としては、ミカエラ以後の蟷螂の記憶はあまりない。幾度か見ているはずだが・・。美加理の存在が大きかったのか、演劇状況が変化したのか・・・。

とにかく、蟷螂は解散し、高取英は月蝕歌劇団を結成し、小松杏里は神奈川の人となった。1989年10月に江ノ島・片瀬海岸にオープンした劇場・天文館でワークショップを始めるまでの1年間、完全に演劇活動を休んでいたという。「東京中心の小劇場演劇の限界と、表現集団の在り方に疑問を感じた」ために蟷螂を解散したのだそうだ。(小松杏里戯曲集「莫/月の兎」作品ノートから)

1989年よりワークショップを行う中で、1990年4月には出演者一般公募のワークショップ公演を天文館一周年記念公演として行っている。小学二年生から70代の方までが参加したこの公演は、小松杏里の演劇観の幅を広げるのに多大な影響を与えたようだ。また、1992年に月光舎を旗揚げした後、1993年には最も影響を受けた演劇人である寺山修司の没後10年ということで、寺山作品の連続上演を行っている。(「青少年のための無人島入門」「書を捨てよ、町へ出よう」)

その後、天文館が1993年9月に閉館してからも、大阪・名古屋での公演や、北九州演劇祭'94への参加など、精力的な活動が続いていた。1995年からは新宿タイニイアリスでのアリスフェスティバルに参加し、1999年には明石スタジオでの公演も行うに至っている。


2001年9月23日(日)の午後、週刊FSTAGE編集部は、横浜桜木町にある月光舎稽古場を訪問した。午後4時45分に稽古場に到着したときは、まさに稽古の真っ最中であった。

待つこと40分。ようやく稽古が終わった。と、その前に行ったと思われる通し稽古のダメ出しが始まった。役者は20人近くいる。細かなダメ出しが延々続いていく。

ちょっと意外だった。噂では、以前のシビアさはなくなり、アマチュア相手のおだやかな稽古と聞いていたからだ。ちっとも甘くないです。普通の稽古です。ダメなとこは何度も何度も繰り返しています。また、役者に「自分で考えろ」という投げかけもあります。決してアマチュア相手の稽古じゃありません。

などというギャップを感じながら、インタビューに臨みました。5時45分にインタビューはスタート。約30分間続きました。

いろいろ思うところがあって神奈川に移ってきたわけだが、「神奈川というのは演劇に対して熱心」なのだそうだ。確かに、扉座の横内さんにお話を伺ったときも、そんな印象を受けた。特に、高校演劇やアマチュア演劇の関心が高いらしい。天文館の一周年記念公演で新聞紙面で役者募集を呼びかけたときも、広い年齢層から40人ほどが集まったという。

その結果、月光舎の客層も幅広いものとなっている。また、いろんな年齢層が対象となると、あまり難解なものは困難となるようであり、作品の内容はわかりやすいものとなっていったという。そして、ここから生まれてきたものを「新しい大衆演劇」として位置付けたのがおそらくは「第一次」月光舎ということなのだろう。

小松杏里の話では、月光舎は変容しているという。1999年11月に明石スタジオで「ピカイア」を行った後、2000年は一年間、休んでいたという。そして、2001年に新たな気持ちでスタートを切るに至り、「第二次」月光舎とも言うべきものを意識するに至ったようだ。2001年3月、横浜テアトルフォンテで月光舎第22回公演「ばびろん」は21世紀へのメッセージとして上演された。

で、その「第二次」はそれまでとどう違うのか。「つまり、これまでの『新しい大衆演劇』として作り上げたものと、かつての蟷螂時代にやっていたものとの融合と言えるものです。」と答えてくれた。稽古でやっていたものは、まさにそれに違いない。表現されているものは「情念」や「思い」であり、役者への要求は高いものであった。はたしてどこまで役者が表現できるのか・・・は、ここに掲載した数々の写真で判断していただきたい。

いや、難しい芝居だと思う。下手な役者が演じると、形式芝居、雰囲気芝居になってしまうものだ。蟷螂時代から寺山の影響はあったが、最近の劇団で好きなとこを尋ねてみた。「やっぱり維新派ですね。大阪まで見に行きますから。あとは少年王者館です。今回はちょうど重なっているんで見れませんけど。」・・・維新派の「南港」も行ったとか。うらやましい。

その他には、佐藤信のやってることはウォッチしているそうだ。相変わらず、変なことをやり続けているそのパワーに興味を引かれるとか。若手の劇団では・・・ぴんとこないという。若手の芝居も見ているそうだが、「いっぱい動員していること」に感心するものの、刺激を受けるものは見当たらないという。

小松杏里の芝居は、メッセージにあふれている。が、お客にも想像力を要求するものであり、うっかりすると気づかない。社会状況も反映している。「新聞は読まないと」と言っていたっけ。米同時テロについては「報復の行方」も気になるそうだ。「最終的にどうなるのかを考えて欲しい」とも。「日本人のあいまいさも気になる」のであり、「そこいくと韓国人は違うよ」と言う。アリスフェスでは、毎年アジアの演劇を紹介しているが、そこで知り合った韓国演劇人のインパクトは大きかったようだ。2002年には招かれて5月にソウル・倉庫劇場、釜山・ヨルリン小劇場で本作「啼く月に思ふ」を上演してくるそうだ。

2000年10月にはKKロングセラーズ社から「ニューハーフが決めた『私』らしい生き方」というルポを上梓している。また、movie.netにより映像作品の配信も企画されているという。これは、このニューハーフルポをベースとした作品であり、小松杏里の監督・撮影・編集で制作されているらしい。活動の幅は相変わらず広いようだ。

最後にこんなことを言っていた。「自分は演劇人という意識はあまりなくて、いろんなことをやっていたいと思っています。それは昔からです。だけど、先日、流山児さんに『お前もいい年なんだから』みたいなことを言われ、演出家協会に入会させられました。まあ、それはそれでいいかなって思ってます。」・・・どうやら、小松杏里、本気で芝居をやっていくようである。今回の公演もそうだが、韓国から帰ってくる来年の凱旋公演が、楽しみになってきた。期待したい。

 

 

 

取材:週刊FSTAGE編集部 神保正則、金濱夏世


月光舎 第23回公演「啼く月に思ふ」
作・演出 小松杏里
タイニイアリスフェスティバル2001参加
第5回アジア演劇ネットワーク東京公演

2001年9月
28日(金) 19:30
29日(土) 15:00、19:00
30日(日) 15:00 開演

前売・予約 2500円 当日2800円
予約・問い:月光舎042-733-9410 メール:月光舎オンライン

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