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アンファンテリブル前川麻子
オンライン公開インタビュー(全文)


2002年8月
アンファンテリブルホームページBBSにて

by 一寸小丸


作品について
前川さんのオリジナル戯曲は5年ぶりということですが、以前の作品の前川戯曲の特徴というと、以下の2点があげられると思います。第一に「少女のナイーブな感性」、第二に「とんがったセリフ」。

さて、今回の戯曲を読ませていただきましたが、「少女のナイーブな感性」ってのはかなり薄れていたと思います。で、実は私、ちょっと不安でした。なんつうか、この時代に「少女のナイーブな感性」とか書かれても、「リアリティないもんなあ」って思ってたからです。「乙女の純情」とかってもう、どっちかというと「やっかいもの」じゃないですか。「なにを浸ってんだ、このやろー」とか思っちゃう(失敬!)。その意味で、今回の戯曲を読んで、ほっとしました。と同時に、前川さん自身は、そのような「ナイーブさ」に対して、どう感じてらっしゃるのか、とも思いました。

あと、今回の戯曲は、かなり「不条理劇」の要素を感じたんですが、意識してらっしゃいますか。まあ「不条理劇」ってのが通用しにくくなっている現代です。わかりやすい、説明過剰なものが受ける時代です。役者さんだって、「不条理劇って何?」とか思うでしょう。不条理劇ってわかりますか>あかねさん。

などなど、勝手な感想を述べましたが、いきなりですが、作品世界について、「5年ぶり」ということを踏まえて、ちょっとお話ください。(ネタバレしないように話すのって難しいでしょうが)

(ちょっと硬いっすね?)

週刊FSTAGE編集部 一寸小丸
2002.7.26


少女のナイーブな感性すか?
うーん、意識したことないです。 つまり、実際にナイーブな少女だったゆえの作品世界だったっつうことなんじゃないかしら。 もう少女じゃないから(笑)。ナイーブではあるけど。 だから、三十路を過ぎた女のナイーブさは、 もしや微妙にあるやもしれない。

不条理も意識してないです。
非常にリアルかつ端的にわかりやすい情景を切り取ったつもりです。 情景だから、不条理なんじゃないのかな? みんな物語に馴れすぎてると思うし。 でも、物語ってのは、あるはずなんですよね。 不条理に思える情景の中にも、物語は潜んでいると思う。 ただ、確かに、それを探ろうという労力を惜しむお客さんには、 不条理で片付けられてしまうかもしれないなあ。

芝居って、やっぱり役者が動いて空間に立ち上げて完成されるもんだし、 戯曲ってのはその完成予想図もしくは設計図みたいなもんだと思うのね。 だから、戯曲を語ることってあんまり意味を感じないってのがある。 不条理に思えるセリフだって、役者の表情や声にきちんと感情があれば、 そこに物語が生まれるわけだしね。 ほんと、役者次第です。 実際のところ、今うまくいってない役者がいまして、 これは不味いんじゃないかという危機感があり、 いざとなれば、その役者を下ろして、ホンを直して、 あたしが出ることになるかもしれん。 そうはしたくない、なんとかこの面子でしっかり立ち上げて欲しい、 とは思いますが、それと「面白い芝居を作る」ってこととのどちらに重きを 置くかは言わずもがな。

しかし、あたしは今日も体調不全で稽古を休んでしまいました。
2002.7.27


> だから、三十路を過ぎた女のナイーブさは、 > もしや微妙にあるやもしれない。

しかし、「三十路を過ぎた女」ってコトバから醸し出される「生活感」 みたいなもんは、まったくないんですよね。それはそれで、いいのか おいっ、て思うことは・・・前川さんの場合、ないですねえ(^_^;)。

> 不条理も意識してないです。

やぱしね。よく考えてみると、もともと前川さんのホンは、いわゆるステレ オタイプのわかりやすさ、ってのとは無縁でしたもんね。演劇的な過剰な演 出もあまりなくて、人と人の会話(心情)の絡み合いで進行していく。その 絡み合いが時として「不条理」な飛び具合に感じるときがあったの。「飛び 具合」っていうか、「唐突さ」・・・かな。それは結構面白い。

> ほんと、役者次第です。

っていうか、毎度のことながら、役者に対する要求の多いホンだと思います。 セリフが「感性」とか「存在感」とかを要求してますもんね。まあ、それは 当たり前っちゃ当たり前なんですけど。「少女のナイーブさ」とは別の意味 での「繊細さ」を要求してるもんなあ。つっつきゃ簡単に死んでしまうよう なひ弱さと、つっつかれてるのに気づかない鈍感さを、現代人って持ってる ってことでしょうか。

> これは不味いんじゃないかという危機感があり、

「危機感の伴わない創作はない」ということでキレイにまとめときましょ う。作品は紆余曲折の産物ですもんね。その過程が一番面白いのだったり します。あ、ひとごとなんで、面白がってるか?>オレ。すみません。
2002.7.30

> しかし、「三十路を過ぎた女」ってコトバから醸し出される「生活感」 > みたいなもんは、まったくないんですよね。それはそれで、いいのか > おいっ、て思うことは・・・前川さんの場合、ないですねえ(^_^;)。

そうすかねえ。ちゃんと地道な生活してるんですけどねえ(笑)。

> やぱしね。よく考えてみると、もともと前川さんのホンは、いわゆるステレ > オタイプのわかりやすさ、ってのとは無縁でしたもんね。演劇的な過剰な演 > 出もあまりなくて、人と人の会話(心情)の絡み合いで進行していく。その > 絡み合いが時として「不条理」な飛び具合に感じるときがあったの。「飛び > 具合」っていうか、「唐突さ」・・・かな。それは結構面白い。 >

うーん。そうかもね。だって、日常性が一番ドラマティックだと思うのよ。 そーんな大変なことが、こーんなところで、こーんなふうに!っていう、 そのシチュエーションは、日常が一番、劇的だと感じるし。 日常って不条理だらけっしょ?

> っていうか、毎度のことながら、役者に対する要求の多いホンだと思います。 > セリフが「感性」とか「存在感」とかを要求してますもんね。まあ、それは > 当たり前っちゃ当たり前なんですけど。「少女のナイーブさ」とは別の意味 > での「繊細さ」を要求してるもんなあ。つっつきゃ簡単に死んでしまうよう > なひ弱さと、つっつかれてるのに気づかない鈍感さを、現代人って持ってる > ってことでしょうか。 >

そうっすね。アホな役者にはできないホンにしちゃいました。 本気で奴らアホですから、これはもう、現在のところ、かなりヤバイ。

> 「危機感の伴わない創作はない」ということでキレイにまとめときましょ > う。作品は紆余曲折の産物ですもんね。その過程が一番面白いのだったり > します。あ、ひとごとなんで、面白がってるか?>オレ。すみません。

ヤバイぶん、勢いつくとは思いますけどね。 思えば、昔に明石でやった「センチ…」も、当初ヤバかったんだから。

役者について
今回、加藤忠可さんが出演なさいます。加藤さんって、元ショーマですよ ね。ちょっと意外な感じがしました。加藤さんとはどっかで共演なさった んですか。

あと、本間さんと吉岡さんは、以前からアンファンテリブルのワークショ ップ公演などに出てらっしゃったんで知ってますが、立花あかねさんはど こで?

しかし、役者・前川麻子の登場を期待するのは、私だけじゃないだろな。
2002.7.30


えーと、カトチューとは流山児★事務所のプロデュースで一本だけ 一緒になったことがありまして、それ以降の親友です。 渡辺杉枝と三人で「アンファンテリブル・エリート」を名乗り、 「主婦マリーがしたこと」をプロデュースしましたが、 それでも主演してもらってます。

本間さんことアベちゃんはWS一期生、つまり八年目。 吉岡は出戻りで復帰してからももう三年くらいかなあ。 アカネちゃんは、NHKのうーんと後輩で、 OBの飲み会でナンパしました(笑)。

ここだけの話し、あたしも出るつもりでいます。やはり、やむをえず。 これ、宣伝してください(笑)。

それと、スペシャル・ニュースです。 佐藤信の鴎座が来年復活します。これに出ます。 久々プロデュース公演に参加することになり、楽しみです。 こっちはまぁいずれ詳細が発表されるでしょうけど、 とにかく、出ます。


> えーと、カトチューとは流山児★事務所のプロデュースで一本だけ > 一緒になったことがありまして、それ以降の親友です。

おおっ、出たな流山児★事務所公演。なんつったって、いろんな人が 出会う嵐の流山児★事務所ですね。あの「巻き込み」のパワーはすご いですもんねえ。

> 本間さんことアベちゃんはWS一期生、つまり八年目。

WS(ワークショップ)も長く続いてますねえ。週一回ぐらいでやって んですよね。ワークショップの生徒公演も「ソウルオブカラーズ」のシ リーズの一環で何回かやってましたね。まだ続いているんですよね。生 徒募集もしてるんですか?

> ここだけの話し、あたしも出るつもりでいます。やはり、やむをえず。 > これ、宣伝してください(笑)。

って言うか、マジで出るんですかい? 期待していたとは言え、文豪の 仕事もあるでしょうからと・・・。逆に心配になってしまいます。

5年ぶりの本公演ですが、今回のは「劇団」としての公演ですよね。この 形は品行方正児童会が終了して以来になるのでしょうか。アンファンテリ ブル・エリートはどちらかというとプロデュースユニット的なもんでした もんね。

新しい劇団では、てっきり作家・演出家に専念するのかと思ってました。

とすると、児童会が終わったころと5年前と現在とでは、何が違うので しょうか。簡単には言えないでしょうが、まあ、「だいたい」答えてくだ さい。つっこみますから。


> > えーと、カトチューとは流山児★事務所のプロデュースで一本だけ > > 一緒になったことがありまして、それ以降の親友です。 > > WS(ワークショップ)も長く続いてますねえ。週一回ぐらいでやって > んですよね。ワークショップの生徒公演も「ソウルオブカラーズ」のシ > リーズの一環で何回かやってましたね。まだ続いているんですよね。生 > 徒募集もしてるんですか?

えーと、現状は、HPの中にあるワークショップのページをご参照ください。

> 5年ぶりの本公演ですが、今回のは「劇団」としての公演ですよね。この > 形は品行方正児童会が終了して以来になるのでしょうか。アンファンテリ > ブル・エリートはどちらかというとプロデュースユニット的なもんでした > もんね。

ええと、劇団公演ってことになるんですかね?一応プロデュースですが。 うちの劇団員はあたしとタケだけだし。 エリートは、続けたかったんですが借金背負ってしまったんで継続不可能になって終わってしまったという感じだったのかな。

> 新しい劇団では、てっきり作家・演出家に専念するのかと思ってました。

いんや、別にこだわってません。ただ、今後とも役者を抱える劇団にするつもりは全然ないです。劇団にしたのは、児童会旗揚げからの右腕的存在であるタケが、就職するって言い出したもんで、「あんたの帰る場所は、いつでもここにあるぜ」っていう気持ち(というか思いつき)で、劇団宣言しただけです。タケは一旦就職したものの、1ヶ月でクビになりました(笑)。

> とすると、児童会が終わったころと5年前と現在とでは、何が違うので > しょうか。簡単には言えないでしょうが、まあ、「だいたい」答えてくだ > さい。つっこみますから。

つーか、全然違う。もう何が違うか自分じゃわからんくらい、全部。 役者の面倒をみるのはもうこりごりってところでは、児童会を辞めた当時と今も変わらないけど。なんだろうな、なんとかせにゃならん的な気負いがなくなったんだろうと思うけど。やりたいことを、やりたいときだけ、やりたいようにやるっていう、自由があるからね、今は。 結局、劇団ってそれがないでしょ?少なくとも児童会はそうだったもん。 今、一番大きいのは、やりたくなきゃやらんでいい、って自由があることかしらん。観客はもう古いともだちみたいな感じで、ああ、あいつらともしばらく会ってないなあ、久々に誘ってみようかな、どう?ちょっと飲みに出てこない?って感じで芝居やれるから。だと思ってるんだけど。

>役者の面倒をみるのはもうこりごりってところでは、 >児童会を辞めた当時と今も変わらないけど。

役者はねええええ。

なんか、「最近の」ってこともないのかもしれませんが、「おれ(役者)が芝居を背負う」って気概みたいのがなくなってると思いませんか? 特にホンがいい劇団ほど、それを感じます。芝居を見終わったあと、この芝居はホンを読んだほうが面白いんじゃないのか?と思うことが多いです。って、それじゃ芝居にしている意味ないじゃんって思う。

それでも、やっぱ「役者」ってのに期待してしまいます。作家や演出家が机上で考える以上のものを稽古場で見せてくれることを。でないとコラボレーションやってる意味ないようにも思うからです。

どうでしょう。前川さんとこの劇団のことじゃなくて、一般論として、前川さんは役者に何を期待し、何を求めていらっしゃるのでしょう。でもって、最近の芝居とか見ていて、こと役者に関し、何を考えていらっしゃるのでしょう。自らも舞台に立つ前川さんならではの意見が聞けると思うのですが。

あと、

>観客はもう古いともだちみたいな感じで、ああ、あいつらともしばらく >会ってないなあ、久々に誘ってみようかな、どう?ちょっと飲みに出て >こない?って感じで芝居やれるから。だと思ってるんだけど。

については別発言で。

>どうでしょう。前川さんとこの劇団のことじゃなくて、一般論として、前>川さんは役者に何を期待し、何を求めていらっしゃるのでしょう。でもっ>て、最近の芝居とか見ていて、こと役者に関し、何を考えていらっしゃる>のでしょう。自らも舞台に立つ前川さんならではの意見が聞けると思うの>ですが。

ほんとーにね。ごく普通のことですよ。 ホンに書いてないことをやってくれ、ホンにないことを見せてくれって、 それだけです。 ホンにあることを形にするためだけの役者なんざ使いたくも観たくもないです。そんなの、人じゃないじゃん。人間として不自然でしょ。 つーか、別にその役者じゃなくてもいいってことでしょ。 っていうのを、うちではアクターズ・ジークンドーの基本として、 長年かけて教えてきたつもりなんですけどねえ。 まったく意味がなかったみたいですね。 淋しい限りです。 ワークショップ、実は、もう辞めようと思ってますです。

> ほんとーにね。ごく普通のことですよ。

> つーか、別にその役者じゃなくてもいいってことでしょ。

間違ってるかもしれないけど、「静かな演劇」がはやりだしてから、 欲のないっつうか、「きっちり演じること」をベストだと考える役者 が増えたような気がする。間違ってるかもしれないけど。

もちろん、エンタメ系のハデな芝居でも、個性のない、ありがちなハ デさで満足している役者は多いんですけど。

ホンをきちんと表現することだって難しいし、演出家の手腕も問われ るところではあるんだけど、ホンを表現することがゴールではないと 思うんだけどなあ。学習発表会じゃないんで。芝居って、役者を見に 行く度が高いと思う。少なくとも私はそうなんです。第一が役者、二 番目が、今作家は何を考えているのか?ってこと。

> ワークショップ、実は、もう辞めようと思ってますです。

ワークショップってのは、基本的には「出会いの場」ですよね。私は サキちゃんみたいのを見れたので、存在意義はあったと思ってます。 そして、今回、劇団の形を作れたわけですから、次につながれば、 「場」は維持されます。次につながることを期待します。

> ワークショップってのは、基本的には「出会いの場」ですよね。私は > サキちゃん(編集部注:川島サキ)みたいのを見れたので、存在意義はあったと思ってます。 > そして、今回、劇団の形を作れたわけですから、次につながれば、 > 「場」は維持されます。次につながることを期待します。

ま、うちが劇団になったのは、役者を仲間に入れないって宣言したようなもんですけど(笑)。 吉岡が、アベちゃんと劇団作ったから、ま、それでよしかな、とは思う。 それに、三谷の「つめきり」もあるし、宝塚の演出部にも送り込んだし、 四人が結婚して子供産んだし(笑)。

表現について
>観客はもう古いともだちみたいな感じで、ああ、あいつらともしばらく >会ってないなあ、久々に誘ってみようかな、どう?ちょっと飲みに出て >こない?って感じで芝居やれるから。だと思ってるんだけど。

>やりたいことを、やりたいときだけ、やりたいようにやるっていう、自 >由があるからね、今は。

これこれ! つっこみがいのあるご意見です(^_^;)v

思うんですけど、それだったら、「飲み会やればいいじゃん」って言いたくなります。いやほんとに。だって、芝居なんて、大変ですもん。

前川さんは、「やりたいことをやりたいときにやる」って言ってて、「楽ーぅな芝居」をやってるように思われる方がいるかと思います。とんでもねえよ。

いや実際、公演を見に行く側は、「そっか、前川さんがまたなんかやってんだ。どれどれ?」って気軽に見に来てくれていいと思います。小屋に行くと、たいがい、前川さんはすでに飲んでるか、タバコすってふんぞり返っているか、ですからね。こっちも気楽になれます。ですが、やっぱ芝居って、そんなに簡単に作れるもんじゃないですよね。なんで、あんな思いしてまで、芝居やるんだろうか、とか思わずにいられません。

前川さんは、一昨年、小説新潮長編新人賞を受賞なさいまして文壇デビュウを果たされました。つまり、小説というメディアを手に入れました。そちらで表現ができるわけです。にもかかわらず、あえてめんどくさい芝居という創作を続けてらっしゃる理由って、どこにあるんでしょうか。だって、芝居って、いま、厳しい環境にあると思うんです。普通の人は、日常生活でつらい思いをしてらっしゃいますから、わざわざ劇場に行って、あれこれ考えたり悩んだりしようと思わないじゃないですか。「思考停止」の時代と言ってもいいかもしれな。これって演劇にとってはツライ時代ですよねえ。なのに、なぜ芝居にこだわるのか。

どうでしょう?

参考:週刊FSTAGE 2000.01.29
前川麻子氏、初の小説が「小説新潮長編新人賞」受賞!


> 思うんですけど、それだったら、「飲み会やればいいじゃん」って言いたくなります。いやほんとに。だって、芝居なんて、大変ですもん。

そう言われてみれば、そうですねえ(笑)。 しかし、飲み会やっても、どうせそこにいるあたしは「前川麻子」を演じるわけでしょ?

で、誤解を恐れずに言えば、あたしは観客には興味がないんで(笑)、 別に飲み会をやる必要もない、と思うんですが。 あたしには、飲み会より、芝居の方が楽ってことなんでしょうかね。

> 前川さんは、「やりたいことをやりたいときにやる」って言ってて、 >「楽ーぅな芝居」をやってるように思われる方がいるかと思います。とん>でもねえよ。

しかしまあ、そう見えるってことは、そうであるってことでもあるわけで。 よその誰かには「芝居はしんどい」のでしょうが、あたしには「芝居してるのが一番楽」ってことだと思うんですよね。 普通に日常を生きてく方が、ずっとずっとしんどいです、あたしゃ。

> いや実際、公演を見に行く側は、「そっか、前川さんがまたなんかやっ>てんだ。どれどれ?」って気軽に見に来てくれていいと思います。小屋に>行くと、たいがい、前川さんはすでに飲んでるか、タバコすってふんぞり>返っているか、ですからね。こっちも気楽になれます。ですが、やっぱ芝>居って、そんなに簡単に作れるもんじゃないですよね。なんで、あんな思>いしてまで、芝居やるんだろうか、とか思わずにいられません。

つまり、前述の続きになりますが、「しんどい」と「楽」の、価値観の違いなんじゃないすかね。今のうちの稽古観てても思いますもん。 なんでできないのかわからない(笑)。 だって、あたしはできるから(笑)。 大昔、佐藤信の演出では、ほんっとーに死ぬ思いしましたよ。 できなくてできなくて、頭狂いそうで、もう神頼み。毎朝毎晩、神様にお祈りしてましたからね、ほんと。 「どーぞ寺山修司の感覚が一瞬でも私に備わりますように」って(笑)。 ほんとですよ。 で、神様は力を貸してくれたんですよ、ちゃんと。 ある日、突然、「あああっ!なんだ簡単なことじゃん!」って、 わかった瞬間があって、それで結局OKになったから。 なので、それからは佐藤信の言うことを訊かなくなった。 だって、寺山修司があたしの中にいたんだもん(笑)。

>「思考停止」の時代と言ってもいいかもしれな。これって演劇にとっては>ツライ時代ですよねえ。なのに、なぜ芝居にこだわるのか。 > どうでしょう?

うーん。あたしは、観客には思考する義務も責任もないと思うんだけど。 思考ってのは、作る側が必要なときだけすればよくて、それにしても、結局本質として要求されることは感覚っていうか、考えることより感じることだと思うのね。で、お客さんにもそうであって欲しいな、と。 いや、それもちょっと違うかな。 別に、お客さんには、今はもう何も求めていない。 考えようが感じようが、なんでもいいです。 ただ、そこにいて、しっかり観て下さいよ、と。 「やる」から「観て」って、それだけだよね、本質は。 「観る」から「やって」って形でやってますけども。

>あたしには「芝居してるのが一番楽」ってことだと思うんですよね。 >普通に日常を生きてく方が、ずっとずっとしんどいです、あたしゃ。

うへぇ! これが言ってることは、別にあっちのことじゃないとは思うんですけど、その私生活の激動をちょびっと垣間見ている身としては・・・笑ってしまいました。すみません。そりゃ前川さんの「日常」の激動ぶりは、かっこよすぎませんか? 恐ろしくて、「今、誰と暮らして」なんてことは口が裂けても聞けませんもの。いや、このサイトにある日記も最近は怖くて読めまっせん。

まあ、「普通の暮らし」が苦手、って感覚はわかります。「もの作りモード」に入ると、日常がめちゃくちゃになる人は多いと思いますが、もともと「普通の暮らし」がうまくいってない人の場合、「もの作りモード」が「常態」になるってことなんでしょうね。そういう人は、しょうがないので、ものを作って投げ銭を集めて暮らしていく運命なのでしょう。かっこいいようにも思う。こっちは黙って、応援して見届けるしかないわけです。

>別に、お客さんには、今はもう何も求めていない。 >考えようが感じようが、なんでもいいです。 >ただ、そこにいて、しっかり観て下さいよ、と。

これはたぶん、もの作ってる側の正直でストレートな表現だと思います。ただ、横にいて、大きなお世話だと思いながらも、動員のことや制作的なことを心配してしまう身としては(心配しているだけで、そっち方面ではなんもしてないけど)、前川作品を「感じて欲しい」し、「身体にしみこんで欲しい」とか思ってしまいます。お客さんにその感じる力はありや?、と。

私は、1991年の品行方正児童会公演「かげろう、稲妻、水の月」(作・演出:前川麻子)を90年代の名作演劇のひとつとして数えています。数えていますが、ほとんど覚えていません。えんぺにレビューがないし。確か吉田秋生の「河よりも長くゆるやかに」の世界をきっちり描いていた傑作でした。そのナイーブな感性がビシビシ来ました。ビシビシ来たことだけが記憶に残っている。

もちろん、2002年の現実ってもんがあるよね。感じないほうが安全に生きられる、だったりしますし。思い悩まないほうが、無事かもしれない。世界で起こっている理不尽なことには気づかないほうが楽かもしれないし。その意味で、刺激的な作品を見て感じる能力のある人は、見ないほうが安全かもしれない、とか思わないでもない。が・・・、ま、いいか。

それにしても、「なんでもいいから、そこにいて、そして観て」というコトバは、ほんと達観しているようで、大人ぢゃーん、と思ってしまう。けど、現実の前川さんは、相変わらずとんがったコトバを吐き、挑戦的な態度と目をしています。そりゃ確かに前よりは丸くなったかもしれませんが、それでも加藤忠可さんにたしなめられたりして、にしかどさんの言うところの「前川節」は今も健在です、飲み屋では。あれはやっぱり前川麻子を演じているんでしょうか。まあ、演じているのだとしても、それはもう天が与えたもうた役ですんで、全うしていただくしかないわけです。きっと、前川麻子ならこう書くだろう、という戯曲を書き続けていただきたい。前川麻子ならこう演じるだろう、を観せ続けていただきたい。前川麻子ならこう生きるだろう、をやり続けていただきたい。そのツライ日常で「笑い」をとっていただきたい(ひどい言い方>オレ)。感じてしまったがために安全から逸脱してしまった身としては、それを要求するしかないわけです。そのかわり、観るからさ。

どうでしょう。


>きっと、前川麻子ならこう書くだろう、という戯曲を書き続けていただきたい。前川麻子ならこう演じるだろう、を観せ続けていただきたい。前川麻子ならこう生きるだろう、をやり続けていただきたい。そのツライ日常で「笑い」をとっていただきたい(ひどい言い方>オレ)。感じてしまったがために安全から逸脱してしまった身としては、それを要求するしかないわけです。そのかわり、観るからさ。 > > どうでしょう。

うぃっす。仰る通りです。何も言うことありません。 ありがとうございます。

小説と芝居について
小丸ちゃんのインタビューの答えに、ちょこっと補足しますね。

表現方法として小説を書いてるつもり、ないんですよ。 新しい表現方法を求めて、小説を書き始めたんじゃないし。 ただ、食いたい、食っていきたい、という、 人が生きてく上での当たり前の範疇での向上心であって、 たまたまあたしには、そういう能力が、 普通の人からみた特殊な、芝居とか小説とかの、そういうのしかないってだけなんであって。PCの知識があれば、プログラマーとかやってるだろうし、能力があれば、アムウェイの販売員とかでもやってただろうし。 普通のことできないんだよね、あたしは。極端に。 普通のことができる人が心底羨ましいもの。 思うのよ、うちのWSの連中なんかにもさ、 普通のことやる能力があるのに、なんで芝居なんかやってるんだろって。 基本的には、それしかできない人がやるものだと思うから。 芝居も小説も。

小説一冊書いても、芝居一本やったときみたいな解放感とか、充足感とか、ないんだよね、まだ。それは充分なことができていないからかもしれないし、あたしが小説において「それしかできない人」じゃないからかもしれない。 しかし仕事として成立するんだから、やります。で、注文がこなくなったら、辞めます。

これは芝居も同じだと思う。 基本は「それしかできない人」がやることだけど、仕事として成り立つってまた別のことでしょ? あたしは、結局、やりたいとかやりたくないとかで自分のやることを決めてきてないと思うのね。 注文に応じるって形だけで、自分のやるべきこと、自分にできうることをやってる感覚なのですね。 だから観客が誰一人こなくなったら、芝居も辞めると思うし、そもそも観に来てくださいって言うの、好きじゃないから。

表現したいって欲が、ないはずないんだけど、意識したことない気がする。元々、テーマとかメッセージとかのない作り方してるし。 ただ、仕事っていう意識が異常に強いのかもしれない。 お金を貰うって感覚ね。 芝居でも、小説でも、最初っからそれがあるし、そこから始まって、 そこに終わるってのが全部なんじゃないかなあ。あたしは。 お金を貰うのだから、面白くなくちゃとか、自分も楽しまなくちゃとか。 何を伝えたいとかはあとづけで、 それだけのお金を貰うのに相応しいこと、として考えてるのかも。

確かに、芝居も小説も自己表現方法なんだろうけど、あたしにとっては何よりも「仕事」だと思う。


>表現したいって欲が、ないはずないんだけど、意識したことない気がする。

それは、「表現できなくなるかもしれない」という恐怖に襲われたことがないからじゃないの?

> それは、「表現できなくなるかもしれない」という恐怖に襲われたことがないからじゃないの?

ああ、なるほど。そうかもしれないです。 でも、表現できないって危機感を感じたことがないのは、 表現する、ってことを意識していないからだとも思う。

今日の稽古でも、表現しようとする役者に対して、 「貧乏臭い」「薄汚れてる」「みすぼらしい」などと 悪口雑言を吐いて、傷つけてしまいました。>某女優さん、ごめんね。 昔、キャラメルで共演した小宮さんに 「マエカワは、舞台の上に、ただいるだけ、ってことができる珍しい役者です。それを学びたい人は、マエカワのワークショップに行くといいかもしれない」って言ってもらったことがあるんですが、実にそうでありました。 が、これが難しいんだろうね。表現欲のある人にしてみれば。 どうして、「ただいるだけ」ってことができないのか、不思議で仕方ない。 つまりさ、表現欲なんて金銭欲と同じだと思うんだよね。 なくても平気、いらない、使わないからって人には、どうしてそんなに稼ぎたいのかがわからないし、お金欲しい、だってお金がすべてじゃんって人には、お金なくてどうやって生きていけるのか?と思うわけでしょ。 ま、あたしの場合、金銭欲は旺盛ですが(笑)。

でもね、「ただいるだけ」ってことの難しさを、そのまた大昔にずばり指摘して誉めてくれたのは、白石加代子さんだった。 「マエカワさんは、舞台の上で一瞬たりとも、素を見せないところがスゴイ」と。 「素でやってるでしょ」と言われがちなあたしにとっては、流石白石加代子!と思った一言で、とても嬉しかったのを覚えてる。

ま、そんなこんなひっくるめて、「表現しようと意識したことがない」んであり、「芝居が日常」という感覚だったりするんであり、 …だと自分では思うんですが。


> 表現する、ってことを意識していないからだとも思う。

> 今日の稽古でも、表現しようとする役者に対して、

私が言った「表現」は「創作活動」のことですが、稽古のこととなると、 どっちかというと「演技表現」のことですね。違ってるともいえるもの ですが、「演技」論として面白かったので、オッケー。

ってゆうか、ほんと「創作活動」っていう意識がないんでしょうね。日常 生活の延長にもの書いたり、演じたりってことがあるんでしょうね。いろ んな意味で大変です。周りにいる人って・・・ごくろうさまです(^^;

「ただいるだけ」かああああ。これは「なにもしない」ってのとは違うん だよねえ。「日常のように演ずる」というのとも違う。そんなのはあたり 前だから。よく、「人間はそんな動きはしない」ことを平気でやる人とか、 「人間はそんな風にはしゃべらない」ことをやっちゃう役者とかいますが、 それは基本です。ただ、きちんと演じれたからと言って、それだけじゃだ めで、なんちゅうか、「存在感」の主張というか、「役者のリアリティ」 の表現というか・・・「そこにいる」ということは出さなきゃいけないわ けで・・・難しいよなあ。

いずれにしても、前川さんの演技を、今回も見れることを期待します。そ れが予定になかったことだとしても、楽しみです。


> ってゆうか、ほんと「創作活動」っていう意識がないんでしょうね。日常 生活の延長にもの書いたり、演じたりってことがあるんでしょうね。いろ んな意味で大変です。周りにいる人って・・・ごくろうさまです(^^;

です、です。

最近のことについて
何を隠そう、私と前川さんの出会いは、月刊シティロードの「前川麻子の 人生相談」でした。そこで、最後に、最近次々と起こるひとりよがりの事 件について伺いたい。例えば、離婚問題のもつれで、奥さんの両親と義理 の子供を刺し殺した亭主の事件。

そりゃ、私も人の子ですから、カミさんに殺意ぐらい持ちます。早いとこ 死んでくれれば、おねーちゃんと新しい生活を始められるのに、と期待し たりします。ですが、なかなか手をかけられるもんじゃあありません。

あの亭主、てめーのDV(家庭内暴力)でトラブってんのに、なにやってん だか。どうも、最近の事件って、途中で考えるのをやめてるとしか思えま せん。相手の立場を理解できないってのもあるけど、想像するのをやめて んじゃないだろうか。これを私は「まいっか症候群」と呼んでます。

どうでしょうか。深く考えることがなくなっていることの現われなんで しょか?

(芝居が佳境に入ってるときにアレですが、軽くお答えください)


> これを私は「まいっか症候群」と呼んでます。

うん。多いよね。そういうの。年齢や経験に関わらず、突如として襲われることがある、発作みたいなもんだと思うけど。

> どうでしょうか。深く考えることがなくなっていることの現われなんで > しょか?

やっぱり、コミュニケーション能力の低下からくるんじゃないすかね。 考えるって行為に、必要な視点(自己と他者)が、どうも欠落しているように思う。因みに、あたしの思想はヘーゲル寄りなんで(笑)。

もうなんか、考えることがなくなったっていうより、ただ単に、 みんなバカ。バカばっかり。特にうちの稽古場(笑)。 どうでもいいことばっかりぐずぐず考えてて、 本当に考えるべきことが見えていなかったり。これは、毎度だけど。 てことはやっぱり、日常的に考えるって能力を使ってなくて、 オツムが鍛えられていないってことなんですかね。

考えないってことができればいいだけなんだけど、 考えてなんとかなると思ってるところがバカ。 放置するって方法論がないんだよね。 自分でどうにかできると信じ込んでて、 どうにかしようとやっきになってる。 殺すしかなかった、ってことでしょうね。

考えることをしないからではなくて、 考えてしまうからなんだと思うな。


> もうなんか、考えることがなくなったっていうより、ただ単に、 > みんなバカ。バカばっかり。特にうちの稽古場(笑)。

ああもう、ちゃんと稽古が反映しているぅぅぅ。この時期(本番の 一週間前)になると、すべてが稽古の状態を反映しだすもんです。 ま、普通なんですけどね。(私も自分のほうのことで、だんだん やばくなっているです。)

> 考えることをしないからではなくて、 > 考えてしまうからなんだと思うな。

ストーカーとか、いろんなことを考えてますもんね。だけど、もと もとの価値観が単純にできてるんだから、どうしようもない。

まもなく9.11が訪れますが、世の中、シンプルな価値観が蔓延して て、やられたらやりかえせ、みたいな単純な思考回路が堂々とまか り通っているという。やりきれません。でも、テレビという迎合メ ディアが先導してるんですから、もう、かないません。「芝居でも 見て、ちょっとずらした考え方に触れてみぃ」と思わずにはいら れません。

っていうか、こっち側には、面白い生き方、面白い価値観が、いっ ぱいあるんですけどねえ。それもこれもひっくるめて、伝わればい いなって思うんですけど。

そうそう、「作る」という感覚はあまりない前川さんですが、「伝 わるかな?」というのはどうですか? 「やるから見ろ」なわけで すけど、はたしてどこまで伝わるのか、という感覚はありますよね。 いや、伝えたいから、役者の表現力に不安になるんですよね。

どうでしょう。 (「9.11はどうでしょう?」と「伝えたいですよね?」が最後の問い)


> どうでしょう。 > (「9.11はどうでしょう?」と「伝えたいですよね?」が最後の問い)

9.11がどうってのは、旨く答えられそうにないなあ。 NYに親友がいるんで、すごく心配したし、 やっぱり今も余波があるらしいと聞いているし。 しかしまあ、色々なことを(宗教なり思想なり民族意識なりね)信じてる 人がいるわけで、そのどれが正しいかなんてわかんないし、 ただ、自分の性質との相性みたいなもんで、 あたしはアーメンなわけですが。 人を傷つけてまで何を主張したいんじゃっていう怒りがなくはないが、 いや、多分、あんまりないなー…、 ま、人を傷つけてでも主張したいことがなんかある、って感覚の方が、 どっちかていうと、あたしにはわかりやすい。

芝居(小丸さんのいうこっち側)には、面白い考え方(生き方や価値観)があるよ、っていうのはあんまり思わない。繰り返しになるけど、芝居ってのは、あたしにとって日常なんで。自分以外の人が、それを面白いと感じることは充分に知っているけど。こっち側とあっち側っていうのが、ちょっとよくわかんないな。

伝えたいか?というのもねえ。 うーん。伝えようという作り方ではあるけど、 伝えたいというより、感じさせたい、ってことかなあ。 例えば、AがBを殺す、って場面を芝居でやるとして、 あたしが伝えようと意識しながら作るのは、 「AがBを殺す」っていう出来事だけなんだよね。 だから、伝えたいってのと、ちょっと違わない? 知らせたいって感じに近いかも。 お芝居というニセモノの日常、でっちあげの出来事は事実ではないけど、 そういうことを、事実のように知らせることで、 観客に何かの感覚が生まれたらいいな、とは思う。 人殺しなんて、知ろうとして知ることができるもんじゃないわけで、せいぜいがニュースとルポルタージュでしょ? 芝居に、それを知らせる一つの手段としての側面があってもいいと思う。 だけど、でっちあげの出来事なわけだから、出来事としてのリアリティーはいらないんだよ。人ですね、人。 Bを殺すAという人だったり、Aに殺されるBという人だったり、そういう人いるかもしれないね、って感じで、観客が「知る」ことができれば、それで充分だと思う。だって、「わかる」なんてのは、ありえないから。 だから、「わかる」を前提とした「伝える」ということよりも、 「見る」を前提にしただけの「知る」という言葉を択びたいんだけど。 もう稽古場じゃ毎日、役者に「お前ら嘘ついてない?」って突き詰めてるわけさ(笑)。

例えば、カトチューやあたしの芝居(表現)と、ギャルズの芝居(表現)のでは、本質的に要求されてるのは「人としてのリアリティー」だから同じだけど、それを見せる技術があるかどうかってとこで決定的に違うと思うんだよね。普通に年とって人としての深みが増せばそれも役立つし、単純に演技の技術があればそれでいいわけで、でも、その本質に「人としてのリアリティー」をなくしちゃったら、もう全然お話にならないと思うわけ。

そういう役者さん、多いじゃん。そういう役者の芝居見せられちゃ、観客はそりゃ「劇的」だなとしか思わんさ。で、それって、やっぱり、「知らせる」ことにならないと思うわけ。思想があって、それを劇的に演出して作る芝居もあるわけで、それって、あたしからすると、思想や劇的な手法を「伝える」ってことに思える。それはそれでいいんだけど、あたしは、あんまり興味がないってことで。

しかしまあ、そんなこと考えてやってるわけじゃないんだよね(笑)。 自分の作り方とか芝居の見方を自己分析してるだけですよ、ここで答えてることは。そんなこと考えてやってるかっていうと、どうやったら面白くなるかなーってことだけかもしれないし、どうやったら自分が面白がれるかなーってことの方が大きいかもしれないし。

なのにまあ、観る人は本当に色々と考えてくれるんですから、 それってつまり、あたしの意図とは関係なく、芝居そのものに何かを「伝える」力なり、「知らせる」力なり、「感じさせる」力なりがあるってことだと思うのね。で、それはあたし一人でできることじゃなくて、役者とかスタッフさんとかは勿論、それを受け止める存在としての観客がいないとあり得ないことだと。 ややこしくなってきたかもしれないけど、ひらたく言えば、「伝える」ことが成立するのは、「伝わる」相手(何かが伝わったと感じる観客)がいないとあり得ないし、「知る」にしても「感じる」にしてもね。だから、創り手の意図でそれを選択しようってのは、厚かましいんじゃないかと思うのね。 創り手は創ればいいんだって。できること目一杯でさ。 大体、「伝えよう」なんて厚かましいこと考えて芝居創ってる奴の芝居って、面白かった試しがないじゃん(笑)。


> 伝えたいか?というのもねえ。 > うーん。伝えようという作り方ではあるけど、 > 伝えたいというより、感じさせたい、ってことかなあ。

なるほどぉ。わかったぞわかったぞおお。

で、細かい説明は省きます(おいおい)。詳細は8/13に週刊FSTAGEに アップする公開インタビュー要約版で。(追加しても要約版)

・・・だからあれですよ。伝える、すなわち理解させるのは、そう いう芝居をやればいいので難しくはない(役者の力量に負う点がある から簡単ではないんですけどね)。感じさせるのって、やっぱ大変 だと思うよ。それは前川さんの感性と共鳴することですからね。 お客さんにもそういう感性が必要でしょ。お客さんも大変だよな。

んで、ふと思い出したんですが、アンファンテリブルが「ソウルオブ カラーズ」のシリーズを六本木・将軍でやってたときの客席って、独 特の雰囲気がありました。お店の異質さもあるけど、なんか、集まって いる客が幸薄いってゆうか・・・こらぁ!

(なんてことをココで言うかよ>オレ)

いや、感性を共有してるって意味では、褒めコトバです(無理があるか)。

ん? 省くと言いながら、ずいぶん・・・。

というわけで、オンラインインタビューは以上です。前川さんもおっしゃっ てますが、たぶん、普段考えていないような、自分についての分析をコ トバにしてもらうのも、こういったインタビューの目的でもあります。

ということで、公演がんばってください。本番を見たら、またこちらにも 感想を書かせていただきます。


なかなか楽しい試みでした。 どうもありがとうございました。

七年間、ソウル・オブ・カラーズで、 あたしの芝居を面白いと感じてくれるお客さんを育てよう、という 目的でやってきました。 今回、久々のプロデュース公演で、 その結果が一つ出るのではないかと思っています。 うちのワークショップも同じ目的で始めたわけですから、 ワークショップの生徒をプロデュース公演で板の上にのっける、 というところでも、これまた一つの結果になるんだと思います。

今日は、小返しして全場面(うそ、あたしの場面飛ばしたんだった)を 当たり、昨日がたがただった部分を丁寧に段取りました。 かなり出来あがっています。演出は。 バランスも治まりました。目標の一時間二十分、ちょうどくらいだと思う。 昨夜は徹夜で台本の整理をして、丸々直しました。 いいホンですよ。あれだけ直しても。 最初より、ぐっとくっきりした部分もありますから。 …で、後は、役者です。 マエカワという巧いんだけど傲慢な役者が、 全然セリフ覚えようとしません(笑)。

芝居、面白く出来あがりそうです。 手応えあります。 ご期待ください。



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アンファンテリブルプロデュース
「ネクスト・アパートメント」
2002年8月16日〜18日
@高円寺・明石スタジオ
前2500円(週刊FSTAGE予約2300円
(ギリギリでも予約してみてください。当日受付で週刊FSTAGEを見たといえば、きっと2300円になります)

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