No.33 お崎さんのなれの果て(1)

 わたしは、男の人とのおつきあいにおいては、いつも『お崎さん』でいたかったのだと思います。『お崎さん』とは、古典落語『厩火事(うまやかじ)』に出てくる、おかみさんの名前です。

* * *

 高校卒業後、大学進学と、生の歌舞伎と宝塚が見たいという理由でむりやり新聞奨学生として静岡から上京してきた女の子は、配達と集金の合間に商業演劇などの舞台を見る中で、高田文夫さんや立川志の輔さんの落語会にぼちぼちと足を運ぶようになっていました。そして、大学の勉強よりも社会での勉強のほうが面白いと、21歳で大学を中退した女の子は、昭和63年の12月、新聞の求人広告を見て応募した大手電機メーカー系列の電子部品商社のOLとして、就職することが幸運にもできました。それが、わたしです。

 そうやって会社勤めをはじめてしばらく経った年の冬、わたしはTBSテレビ『平成名物テレビ・ヨタロー』で、落語協会『落協エシャレッツ』・落語芸術協会『芸協ルネッサンス』・落語立川流『立川ボーイズ』・円楽党『円楽ヤングバンブーズ』(注41)の若手の落語家さんたちの存在を知りました。テレビでコントを演じる若手の落語家さんの中で、立川流に所属する立川談春・立川志らく・朝寝坊のらく。この三人の『立川ボーイズ』は特に魅力的な存在に思えました。

 平成3年3月3日。

 『ヨタロー』が一年間放映されてあっけなく終わろうとする直前、わたしは生まれてはじめて国立演芸場に足を運びました。落語会の名前は『談春・志らくの出世物語』。テレビをみて集まってきた女の子たちがあふれかえった客席を前に、談春さんは『厩火事』を演じていました。彼の高座の上には、わたしがいました。

 亭主にベタ惚れなのだけれども、女としての自分に自信がなくて、素直に惚れている思いを出せず、大家さんにのろけしいしい相談して、亭主を試すような真似しかできないお崎さん。大家さんに口をとんがらかして愚痴りながらのろける髪結いのお崎さんの中に、不器用な女性としての自分がいる。この人の高座の中に、女としてのわたしがいる。

 そして、わたしは彼の高座の追っかけとなりました。小学生の時、静岡の児童会館で落語を演じた時以来、十数年ぶりに落語を意識して熱心に聞きはじめました。そして、落語会で配られたチラシを見て『東京かわら版』の定期購読の申し込みの電話を、当時勤めていた五反田駅前の公衆電話から編集部にかけたのは、その直後のことでした。見本誌としてはじめてもらった『東京かわら版』には、直前に亡くなられた春風亭柳朝師匠の追悼記事が数多く出ていました。

 けれども、そんな自分に聞こえてくる言葉は、必ずしも肯定的なものばかりではなかったように思います。「談春・志らくは、女こどものファンがいなくなった時が勝負だな」そんな言葉を雑誌で目にした時は、「女こども」のひとりとして腹が立ちました。「女こども」というのは、そんなに軽(かろ)んじられなければならないものなのだろうか。そして、そんな「女こども」のひとりと見なされていることがたまらなく悔しかったわたしは、ファンとコミュニケーションを高座でしかとらない談春さんに少しでも近づきたいと、そして言葉が届いてほしいという願いから、文章を書きはじめました。最初は木村万里さんの発行していたフリーペーパー『笑っていーもんかどーか』への投稿として官製はがきの裏に、そしてネットをはじめてからは@niftyのパソコン通信の会議室で。

 いくつかの会社を転職しながら、日々の仕事が終わった後にわたしは舞台を見続け落語を聞き続け、そういう中で観客席で知り合った立川流のファンで、『東京かわら版』編集部とつながりがあったライターの『みゆ』さんに頼み、自分の書いた原稿を雑誌の落語論文募集に応募してもらいました。そして、それがノーギャラながら採用となって『東京かわら版』に『鳥袴たつみ』名の原稿が掲載されたのは、志らくさんが真打に昇進した時のことでした。

 そして、その後、@niftyの中で大友さんが個人的に主宰している演芸について語り合う会員制のネット上のクローズドの会議室『ソアスガ』に入れていただいたりもしたのですが、そこでわたしはトラブルを起こし、退会することになりました。そして、雑誌の編集者と一読者としての関わりは、いったんは途絶えました。とはいえ、わたしにとって、落語情報誌の編集長をしている大友さんという方は、憧れの人でした。

 平成11年5月24日、月曜日、新宿・紀伊国屋ホール。熱っぽい議論が交わされた『落語の日制定委員会』のシンポジウムが終わり、ロビーで中田キッチュあにさんと『かえで』さんと、三人でつるんでいました。わたしは『週刊FSTAGE』の取材という大義名分を秘め、それをどう生じっか顔見知りであるところの主催者の方にどう説明していいのかわからないまま、会社を終えてから観客のひとりとして客席にいました。

「いや〜、正座で足がしびれちゃってさあ」

 シンポジウムを終えた大友編集長が、上機嫌な表情でロビーに姿を現しました。わたしは意を決して、声をかけることにしました。何かあったとしても、隣に中田キッチュあにさんがいるから大丈夫だろう、と思ってのことでした。大友さんとは、メールや手紙でのやりとりはしたことがありましたが、会ってきちんとお話するのは、実はこの時が初めてでした。

「・・・あの、会ってきちんとご挨拶したことないかと思いますが、わたし、『とりばかま』です。実は、今、放送大学の卒論で『落語とメディア』について研究しようと思ってまして、何か教えていただければと思いまして・・・」

 名刺を渡して目が合った瞬間、ヤバイっ! と思いました。一度失礼なことをしでかしてしまった相手なのに。どうしよう。距離を置こう、と思いました。けれども近づきたい。話をしたり、メールのやりとりをする中で、自分の中の知的興味がどんどんと引き出されてゆくのがわかりました。

 怒りのメールが届いたこともありました。とある雑誌に投稿した内容がひどすぎる、と、いってメールで叱られたこともありました。「あれはあなたでしょう! 情報を売るような真似をして!」

 その時、わたしなりの言い分はありました。しかし、それを言っても水掛け論になるだけだろう、と思い、わたしはその件についてはろくな返事を返しませんでした。そんなこともあったりしましたが『週刊FSTAGE』の取材ということで何回かお会いすることができました。わたしの会社が終わってから、食事をしながらいろいろな話をしました。下戸のわたしが飲めないはずのお酒が妙に進み(といっても日本酒おちょこ一杯が二杯になったくらいですが)、会った後の数日、過食症気味だった食欲がすとん、と落ちて妙に穏やかな心持ちになっていたのはなぜだったのでしょうか? 自分の中にかたくなに隠していた何かがほどけてゆこうとするのがわかりました。ただ、それはあやうい感情も少なからず含んでいることも、過去の経験からわかっていました。

 尊敬と、知識欲。それと相反するしがらみ、わたしの過去の必ずしも多いとは言えない、それゆえにちょいと困ったことになりかねない男関係。すべてが自分をしめつけました。この思いを忘れようとヨガをやってみたり、スポーツクラブの無料体験に行きまくってみたりもしました。その瞬間は良かった。けれども、その帰り道の電車の中でしばらくたつと、からだと心は、元の状態に戻っていました。電車を降り下北沢駅で小田急線を見下ろしつつ、わさわさと立ち食いそばを食べながら、心とからだは渇いた状態で悲鳴をあげていました。わたしはそれを、飢えを感じるのは自分の生命力の証しなのだと曲解して納得させながら、懸命に胃袋をなだめて住宅街を抜けて家に戻り、ひとりでパソコンの前で、またある時は電話の受話器を抱えこんでふとんの中にもぐりこみ、もどかしい思いを抱えてのたうち回る。そんな日々が続きました。

 わたしは落語が好きでした。客席で落語を聞くのが本当に楽しかったのです。そして、わたしは文章を書くのも好きでした。その上で、落語について文章を書きたかったのです。落語と社会との接点を知りたかったのです。

 そのいっぽうで、何回かの転職を経てたどりついた広告代理店の仕事も面白いものでした。新聞を読み、求人広告の量や内容を調べたり、雇用・採用関連の記事の中から役にたちそうなものをピックアップする。そして、名刺一枚で官庁や研究所の広報に行って「会社を代表してます」てな顔をして資料をもらったり話を聞いたりして、ついでに霞ヶ関の官庁の職員食堂でお昼を食べる。わたしは、今、日本の中心に名刺一枚でおじゃましている。そんな感覚を味わうのも、落語を聞くのと同じくらいにわくわくする瞬間でした。そんなふうに会社員として生きているわたしは、芸人さんたちと同じ了見になることはできませんでした。けれども、落語の世界の中で生きている芸人さんを見ることはたまらなく楽しかったのです。

 そんな自分には何ができるだろう、と思いました。だとしたら、会社員としての自分を活かし、一般の人に向けて、芸人さんの世界の考え方を伝えることができたら、と思うようになりました。芸人さんの世界には、流派や協会というしがらみが少なからずあります。それは芸人さんや関係者の方々から直接聞く話を通して、落語会の高座で、また打ち上げの席で語られる、決して公にはならないであろう数多くの情報や噂話から、わかりすぎるほどわかっていました。でも、だからこそ、自分はそんなの関係なしに落語を聞いて楽しみたいだけなんだ、そしてその楽しさを「書く」という形で表現したいんだ、という思いも強くありました。だからこそ、あの時、紀伊国屋ホールで、大友さんが編集長として、四流派の落語家さんといっしょにシンポジウムの同じ高座(?)に正座している姿が輝いて見えたんだと思います。

 まあ、そこまでは良しとしましょう。けれども、わたしは、落語を好きな男性と関わることで、その男性を通して落語にふれ続けようとしているのではないだろうか、ということに気づきました。男の人にわたしの夢を過剰に重ねてしまってはいけない。そして、男の人を通して落語の世界につながることから決別しなければ、と思いました。わたしが直接演芸の世界と関わろう、そう思いました。その結果が「オールアバウトでサイトガイドをやる」ということのはずでした。しかし、それがひとりぼっちになることだとは気づきませんでした。その上、会社員としての自分まで失うことになるとは、思いもよらないことでした。

(2003.12.15)
(つづく)


i-mode用目次