引越後の5月の末に郵便物の転送届を郵便局に提出してから、住所の部分にシールが貼られた郵便物が、静岡の実家に少しずつ転送されるようになっていました。そして、6月の25日過ぎ、口が半分開いた形で封をされた水色の大きめの封筒が、猫のトイレの乾いた砂の中に落ちていました。
雑誌『東京かわら版』平成13年7月号です。
自宅の猫のトイレは、玄関入り口、郵便物が落ちるその下に作られています。猫がなじんだその場所を変えることは、わたしにはとてもできそうにありません。トイレの砂の中から取り上げた封筒の手触りが、色が、やけに懐かしく感じられます。そういえば、6月号を手にしていないことに気づきました。引越しのどさくさで、送られた郵便物がどこかにまぎれてしまったのでしょうか。
今、『東京かわら版』の表紙は『懐かしの芸人』シリーズが続いているのですが(注37)、1月に自殺された桂三木助師匠以来、結果としてその時々に物故された芸人さんが林家正楽師匠の切り絵の似顔絵のモデルとなることがしばしばでした。古今亭右朝師匠も『懐かしの芸人』となってしまって、6月号の表紙となられたのでしょうか? それに、6月の『寄席の日』は無事に行われたのでしょうか?
オールアバウトを続けていたら、何らかの形で宣伝に協力したいと考えていたのですが、寄席のない静岡にいる身では、そういう日の存在自体忘れていました。知ることもできませんでした。せっぱつまった状況の中で、自分は静岡に戻ってから、目の前に置かれた『生活』という現実を生きることだけに精一杯だった、ということにようやく気づきました。
わたしの静岡での住所を知っている東京での知り合いは、まだ誰もいません。佐藤くんにも、静岡に戻ってからは一度公衆電話から連絡をとったきりで、こちらの電話番号や住所は教えていません。転送してもらうだけではない、こちらから住所変更の通知も出さないといけない、と思いました。わたしは『東京かわら版』編集部宛の葉書に郵送購読先の変更の旨を書き、旧住所と現在の住所、そして自宅の電話番号も書いてポストに投函しました。その2日後の夜。母親が、わたしを呼びました。
「東京かわら版の大友さん、ていう人から電話だよ」
コードレス電話の子機が手渡されました。泣くかな、と思っていました。けれども、あの時のわたしはどこか無表情にビジネスモードで電話を受けていたと思います。
「はい、お電話かわりました」
「・・・ああ、もしもし」
暖かさとどこかしら底に乾いた響きが交じり合う聞き覚えのある声が、耳の奥に響きました。
「ああ、どうも、ごぶさたしてます」
どうしてこの人と向かい合う時には、いつもこの言葉が出てきてしまうのだろうか。 わたしは『かわら版』で知った情報を口にしました。
「かわら版サイト、オープンおめでとうございます」
その言葉をさえぎるように、声が入りました。
「どうしてやめちゃったんだ、リクルート。すごくやる気があったのに」
「ああ、オールアバウトですか。まあ、いろいろありまして」
「新聞の切り抜きとかこっちで整理する気はないですか?」
「何言ってるんですか、新幹線代もないんですよ、こちらは」
「・・・いったい何で静岡に戻ったんだ?」
今、この電話口で、ひとことで言い表すことはとてもできそうにありません。それに、この方がとぼけていらっしゃるのか本当に知らないのか、それは今のわたしにはわかりません。ただ、今はまだすべてを言う時ではない、と思いました。会ってきちんと伝えなければならないことがあります。その思いだけが、わたしをここまで生かしめてきたのです。
「今は何があったかは言えません。とにかく、いつか時が来れば、きちんとお話することができると思うんです」
優しい声で話そうとしていたのですが、わたしは、怒鳴るように電話口に向かって声を出していました。
「そうですか、わかりました。元気そうで何よりです。また、メールでも良かったらください」
気圧(けおさ)れたような声が聞こえました。
「ありがとうございます」
15分ほどの会話になったでしょうか。電話を切りました。黙って娘の様子を見ていた母親が言いました。
「あんたもけっこうしたたかだねえ」
・・・・そうですか?
その夜、夢を見ました。水色のリボンが固く結ばれていました。わたしはそのリボンをほどこうと苦しんでいました。すると、ぽーん、と、そのリボンがほどけ、ピンク色に変わってするすると目の前に現れました。そして、忘れようとしていた記憶が、見て見ぬふりをしていたすべての記憶が、今までの出来事が、頭の中に洪水のようにあふれ出しました。
何があったのか、何をしてきたのか。 それは何のため、誰のためだったのか。 なぜ、わたしは、今、ここにこうしているのか。
静岡に戻ってきてから、それらのすべてを懸命に忘れようとしていたのはなぜなのか。そして、自分はいったい何をやりたかったのか。料理を覚えたかったんじゃない、エステに行きたかったんじゃない、英語をしゃべれるようになりたかったのでもなかった。そんなことでごまかすことなどできない、本当の自分の思いはいったいどこにあったのか。
落語を聴きたい。そして、文章を書きたい。演芸の世界をサイトで案内したい。
自分が自分であるところのすべての感覚が噴き出すように蘇りました。あおむけでふとんをかぶり、歯をくいしばって、声をこらえて、泣きました。頬にあたたかい涙が流れ続けて止まりませんでした。
『東京かわら版ネット』が始まることを、前もって知っておきたかったです。そうすれば『東京かわら版』をネットでどう紹介していいのか、などと悩む必要もなかったと思います。お会いできないまま悩みごとばかりが増えてゆき、そして、思いもかけない出来事が起こってしまいました。それでも、言葉をいただくためには、ご迷惑をかけないためには、すべてを捨てるしかない、と思ったのです。それは間違いだったのでしょうか。わたしはどうすれば良かったのでしょうか。そしてどんなに頑張っても『東京かわら版』がある限り、そして大友さんがいらっしゃる限り、わたしは、すべてを『なかったこと』にして忘れることはできそうにありません。
人と人は、ネットでつながり続けることはできるのでしょうか。距離が離れても、人と人はネットの上で交わされる言葉で、関わり続けることはできるのでしょうか。たとえOSが異なったとしても、所属する協会が異なったとしても、同じサイトの上で、共通の話題で、人は語り続けることができるのでしょうか。そうあってほしいと願い、そして、せめて、ネットの上では地域による情報格差をなくしたいという地方出身者としての思いを胸に、東京でオールアバウトのサイトを作り続けたことをようやく思い出すことができました。静岡でのこれからの日々は、それを確かめるためのものとなるのでしょうか。
(2003.12.10)
(つづく)