6月6日、夜10時。
わたしは自分の部屋で教育テレビを見ていました。新聞で、落語立川流家元・立川談志師匠と澤田隆治さんの対談が放映される(注34)、と知ったからです。わたしは、それまで読んでいた筒井康隆全集を脇に置き、息をのみながら番組が始まるのを待っていました。番組がはじまってまもなく、
「澤田隆治とは絶対喧嘩をしない」
というフレーズが、家元が書いた本から引用されていました。
うわあ!!!!!
いきなり、心臓を突き刺されたような驚きが、わたしの中に走りました。もし、今、わたしが誰かに事情を話したとしたら、わたしは、この本を見て『東阪企画』の名前を次長の前で出した、と思われてしまうでしょう。
違う! 絶対に、違う! そんなことはない! しかしその理由と事情を話すわけには行かない!
わたしはテレビを見続けました。またしばらくして、家元がのたまいました。
「立川志らくの『子別れ』が・・・」
またまた、驚きが走りました。
わたしが雑誌『東京かわら版』に論文を掲載してもらった時の内容(注35)は、志らく師匠がテレビ番組『落語のピン』の収録の時に演じた『子別れ』の中のくすぐり、脇役の『八百屋』についての考察でした。そして、その時の『子別れ』の内容がふたりの口から、画面で語られていました。
・・・・・・。
家元と澤田さんが、そしてNHKまでもがテレビを通してわたしを試している。わたしに向けて電波を発信している。そうとしか思えませんでした。頭の中は大混乱していました。しかし、その混乱を表に出してはいけない、と思いました。動揺しているところを表に出してしまったら、わたしは、きっと殺されてしまうに違いない。わたしはそう思い込み、無表情でテレビを見続けていました。
がら、と部屋のふすまが開きました。
「・・・あんた、いつまで起きてテレビ見てるのよ。いいかげんに寝なさいよ」
母親が、眠そうな顔で立っていました。でも、今は寝るわけにはゆきません。
「わかったよ、わかった」
彼女に、テレビを消すことのできない理由は説明できません。ふすまが閉まり、テレビが終わってから、わたしは改めて『男たちのかいた絵』を閉じました。そして、今テレビに出ていた人が書いた本を本棚から取り出し、開きました。
まず『談志百選』を手に取り、『澤田隆治』の項を開きました。次に、隣に置いてあった本を手にとりました。『酔人・田辺茂一伝』です。40頁までめくったところで、手が止まりました。
・・・その通りだ、世の中、曇りもあらぁ、曇ってたっていいのだ。いや、日本人曇っているのが好きなのだ。なに日本人だけではあるまいに、まして人生の大人は見事に曇っているのだが、それに到達しない若さという時期、または正義は絶対なものと信じている人は、ことの白と黒をつけないと収まらないのであろう。もし、それを正義というものだとしたら、正義は怖い、恐ろしいものである。もっというと、“それらの行為”に正義という名をつけないと、その行為が正当化できない程度のものかもしれないのに・・・・
「人生曇ってていいのだよ」
本当にそうなのでしょうか。わたしは白黒をはっきりつけようとして、とてつもないあやまちを犯してしまったのでしょうか。本を手にふとんの上にぺたっ、と座り込んだわたしの目から、説明のしようのない涙があふれ続けました。
引っ越し荷物は、費用の節約のために、時間をかけて徐々に届きつつありました。佐藤くんが荷造りしてくれた荷物を開いたところ、覚悟はしていましたが、本はかなり紛失していました。それでも、落語に関する新聞や雑誌の切り抜きやコピー、会のパンフレットなどはかなり残っていました。
本屋のビニール袋に詰め込んだその紙の束を整理しつつ過去の想い出に涙ぐみつつ浸っている中で、昔、木村万里さんからいただいたとおぼしき手紙の便箋がしわくちゃになって出てきました。おそらく『フリーペーパー・笑っていーもんかどーか』に投稿が掲載されたときにいただいたものだと思えました。何年前のものか、どういう時のものかは全く思い出せませんでしたが、それを見た瞬間、わたしは真っ青になりました。ああ、わたしはこの方に何て無茶なことをお願いしてしまったんだろう。激しい後悔が心の中に渦巻きました。この方に比べればわたしは何もわかっていない、何も知らない、底知れぬバカです。・・・佐藤くーん、どうしよう。
「あ゜ーーーーーーーーっ!」
わたしは、便箋を袋に再び突っ込んで、顔にタオルケットをかけてひっくりかえりました。舌かんで死んじゃいたい、穴があったら入りたいけど穴から体が出てしまう。そんな気分でした。娘の尋常でない叫び声を聞いた母親が、タオルケットに声をかけました。
「ユニクロに行って服でも買いに行く?」
「・・・・うん・・・」
母親は原付バイク、娘は自転車で出かけました。その道すがら、消防署の隣、中華料理店の看板が目に入りました。
『万里の長城を仰ぐ麺』
『万里』という文字が強烈に目に刺激となって飛び込んできました。そして次の瞬間、わたしは自転車のペダルをものすごい勢いでこいでいました。そしてユニクロにたどりついた時(注36)、ママチャリの後輪タイヤはパンクしていました。隣の店の看板を何げなく見ました。
『レトロショップ・てなもん屋』
・・・・・・ぎゃああああああ!
自己都合退職のわたしには、失業保険が出るまで3ヶ月の待機期間が設定されます。金がなく、することがないわたしはひたすらに暇でした。母親は、わたしをリラクゼーション効果のあるマッサージにひっぱってゆきました。マッサージの先生は、女性の穏やかな表情をした人でした。この人の前ならば何を語っても叱られることも咎(とが)めだてされることないのではないだろうか。ようやっと体の力を抜くことを許されるようになった、そう感じたわたしは、泣きながら、笑いながら、許される範囲で、わかってもらえるであろう範囲で、ぽつり、ぽつり、と東京での出来事を語り出そうとしていました。
そうやってマッサージに行くことを生活の中心に置いた状態で、わたしはフリーペーパーや新聞の広告を見てはあちこちに出かけました。ダイエット教室の一ヶ月3000円の体験コースに申し込みをして、痩身マシンに身をゆだねました。エステの1000円キャンペーンに行ってフェイシャルマッサージを受け、無駄に張りのある肌になって帰ってきました。エレクトーンの体験レッスンを受講して、小学校以来の懐かしいキーボードと足ペダルの感触を味わうことができました。英会話教室の無料体験で外人や日本人の親子にまじって英語の歌を歌い「元気な方ですねえ」と苦笑されました。浴衣の一日着付教室で体に補正用のタオルを巻き、丸太のような浴衣姿の自分が出来上がったのを目撃しました。料理教室の一日教室でパン作りも体験して、同じ名前の小太りの先生と一緒にはしゃぎました。しかし、いつも、体験の後に提示された金額は、とても今のわたしには払うことができるようなものではありませんでした。わたしは、教室や店を出た後、お金がないがゆえに何もできない自分の今の状態を思って常に激しく落ち込み、自分が置かれてしまった状態を、人目もはばからず泣きながら呪いました。
静岡にもネット喫茶がある、ということを知ったのは6月も半ばを過ぎてからのことでした。喫茶店で手に入れたクーポン誌で、御幸町のネット喫茶の無料チケットをみつけたのです。Windows95のパソコンはタウン誌で欲しがっていた方に500円であげてしまっていました。現実問題、実家でデスクトップのばかでかいディスプレイを通信のために接続するには、炊飯器の横にパソコンを置くしかなく、それはあまりにも非現実的な話でした。今まで帰省の時には携帯用のノートワープロを炊飯器の横に置くようにしてパソコン通信にアクセスしていたのですが、引っ越しの時の振動でキーボードにごみが入り込んでしまい、自宅からの通信アクセスは不可能になっていました。
「さあ、こちらにお座りください」
店長さんが、わたしを窓際の席に案内してくださいました。『ADSL接続』の文字が目に入ってきました。東京にいる時は全く聞いたことのない単語です。
「あの、ADSLって何ですか?」
店長さんから説明を受け、それが新しい高速常時接続回線である、ということがわかったときには切なくなりました。もうちょっと早くこれが実用化されていたら、東京の自分の部屋でオールアバウトの仕事ももっとすんなりできたかもしれないのにね。
わたしは、東京で大友・神保両編集長に、そして『かえで』さんにさよならのメッセージを送ってから、約一ヶ月と半ぶりにパソコンと、その向こうに広がるインターネットの世界と向かい合いました。ちょっと心配でしたが、@niftyのトップページに飛んだ瞬間自然と指が動き、IDとパスワードをすんなりと入力していました。一ヶ月以上ぶりに開いたメールブラウザの未読メールは1000通を超え、メールボックスの容量をあふれ出していました。今の自分にとってはどうでもいいようなDMやニュースリリースばかりの中、わたし個人に宛てたメールを見つけだすことはできませんでした。
ある日、台所で母親が言いました。
「ところでさ」
「何?」
「こらくの住所教えて」
「え? だって、お母さん住所知ってるって言ったじゃん」
「そんなわけないじゃない。さっき警察から問い合わせが来たのよ。さっさと教えてくれ、って」
お母さん。わたし、あなたにはかないません。
(2003.12.6)
(つづく)