朝4時。
佐藤くんは眠っていました。薬でも盛られたんじゃないか、と思うほどぐっすり眠っていました。起きてくれればいいのに。しかし、夜に精力を使い果たした彼は、目を覚ましそうにありませんでした。幸せそうな表情で熟睡している彼を起こすのもかわいそうです。
よし、ひとりで警察に行こう。
ぶかぶかの佐藤くんの運動靴を履き、ピンクのTシャツにジーンズという軽装で、額をタオルケットに包んでわたしは家をそっ、と出ました。郵便受けには、早朝というのになぜか通信販売のカタログが入っていました。その表紙には、こう書いてありました。
「さあ、ここが、メリーゴーランドの入り口です」
これからわたしは警察というメリーゴーランドに行く。そして、すべてを告白するんだ。カタログの言葉に後押しされ、額を抱えて、わたしは胸を張って笹塚駅前の交番に行きました。早朝の交番には、不機嫌そうな表情の太った警官がひとり座っていました。
「・・・あの・・・」
「・・・はい?」
「わたし、実は、この額を盗みまして・・・」
「どこで盗んだの?」
「彼の家で・・・」
「彼の家はどこ?」
「今は違うけど、これは、分倍河原で・・・」
「それならここじゃなくて管轄の警察に行きなさい、分倍河原の交番に行ったほうがいいね」
あごでしゃくるように警官は「出ていけ」という態度をとりました。どうもこないだと違う。
「そうですか・・・」
わたしは額を抱えたまま笹塚駅の改札を抜け、京王線の各駅停車に乗って分倍河原まで行くことにしました。早朝で、まだ、急行は動いていませんでした。分倍河原駅に到着して。
「あの、交番どこですか?」
「ここの道をまっすぐ行って、曲がったところですよ」
「ありがとうございます」
狭い改札を出て歩きましたが、どこまで歩いても見知らぬ景色が続いています。角を曲がったところでようやく気づきました。・・・間違えた。立川こらくの下宿していた場所は、分倍河原ではなく、もうひとつ先の駅、聖跡桜ヶ丘でした。分倍河原は、その昔、こらくのお師匠さんの志らく師匠が住んでいらした場所でした。いかん。師匠と弟子の住んだ場所がごっちゃになってしまった。
通勤する会社員や学生が向かい合わせの新宿方面のホームに増えてゆく中、わたしはひとりタオルケットを十字架のように掲げ、電車を待ちます。そしてふたたび京王線に乗り、聖蹟桜ヶ丘にたどりつきました。駅員に聞き、ようやく駅前の交番の前にたどりつきました。都議会議員選挙の事前運動の街頭演説をする女性候補の声が響き渡る中、わたしは額を担いだままトイレをすませ、その上で交番に声をかけました。
「あの・・・すみません、わたし、実は、この額を盗みました・・・」
交番のガラス戸が閉まりました。
数人の刑事さんがパトカーでかけつけてくださいました。制服の方私服の方、さまざまな方々が入れ替わり立ち代わり、わたしに様々な質問を、考える隙を与えることなく次々と投げかけてくださいます。
「あなたは誰? どこに住んでいるの?」
「この額はどうしたの?」
「彼は落語家なんだね? 誰の弟子? 事務所には所属してるの? テレビとかには出てるの?」
立川こらくという前座の落語家と付き合っていたこと。彼は落語立川流の前座として、立川企画という事務所に所属・・・していること。
「立川企画という事務所はどこにあるんだね?」
「世田谷の三軒茶屋・・・あ、違う! 今は大田区の鵜の木にあるはずです」
前座と事務所との関係を、あわただしい交番の中でわかりやすく説明できるところまで頭はとても回りません。それよりも、わたしがなぜこの額を持っているのか、そしてどうしてここに持ってきたのかを話すことに必死でした。
ああ、ようやく、わたしの話を、逃げることなくきちんと向かい合って聞いてくれる人がいた。わたしはたたみこまれるような問いに感謝すら感じながら、ようやく安心して話すことのできる事実を、ひとつひとつ問われるままに何度も何度も繰り返し話しました。
「こんなものどうでもいいじゃない」
いや、そう見えるかもしれませんけれども、その・・・
「彼はどんな落語家だったの?」
「・・・わたしにとっては・・・・面白い人でした・・・」
わたしは額を包んだタオルケットのきれはしで、顔をごしごし拭きながら、ぼろぼろぼろぼろ泣きました。あー、ほんと、ナンダカワカンナイ。
警官に囲まれ、パトカーに乗って、こらくが昔下宿していた家の近所に向かいました。道を入った方向が多摩川沿いからだったのでその家を正確に特定して思い出すことはできなかったのですが、道に入る目印になる居酒屋は確認することができました。パトカーの中でもいろいろなことを聞かれました。
「最近病院に行ったの?」
「薬はもらったの?」
「・・・神経科に行った時・・・」
「それはいつ?」
「・・・三年前・・・」
「いや違う、そうじゃなくて、もっと最近あるでしょう?」
「あ、二月に顔が腫れまして、その時に」
「そうでしょうそうでしょう」
?????? なぜ、この人たちは、話してもいない、会社関係者以外知るはずのない(ホームページには書きましたが)わたしのつい最近の出来事を知っているのだ ?????
聖蹟桜ヶ丘駅前からこらくの下宿があった家の前を抜け、緑の多い町並みを越え、多摩センターの駅を過ぎて、多摩中央署にたどりつきました。パトカーを降りた署の入り口には、ピーポくんと、なぜか信楽焼のばかでかい狸の置き物が向かい合って並んで置いてありました(注32)。柳家小さん師匠でもここにいるというのだろうか。まさかそんな。警察までわたしをバカにしている。そう感じながら、わたしはうつむいて取調室に入りました。
「あ、その前に、ちょっとトイレ」
刑事さんに前と後をはさまれる形でトイレに行き、用を済ませました。トイレの入り口には、鉛筆で描かれた男性の似顔絵が貼ってありました。名前こそ書いてありませんでしたが、肉付きが薄く、眼鏡をかけたちょっと彫りの深いその顔は、なぜか、佐藤くんにそっくりでした。わたしは、出頭してしかるべきだったんだ。似顔絵を見ながら、そう思っている自分がいました。
トイレを済ませ、改めてわたしは刑事さんに付き添われて1階の取調室の椅子に座りました。白い鉄の柵が入れてある窓の向こうには、京王線と小田急線が交互に走るのが見えます。わたしはもう一度、入れ替わり立ち代わり目の前に座る方々に、額についての事情を話しました。自分がどういう者であるか、どのような立場にいる者であるか、ということも聞かれたままに正直に話しました。会社を数週間前に辞めたこと。そして静岡に戻るのだけれども、その前にこの額を返さなくてはと思ったけれども、手だてがなくて、ここに持ってきたこと。
窃盗犯一丁上がりです。
こらく、君からもらったのはクラミジアばかりじゃなかった(注33)。犯罪者にまでなっちまった。
煮しめたような茶色のシャツとズボン、でっぷりとはみ出したお腹、というそれこそ『狸』を思わせるような刑事さんが、わたしの『情』の部分に訴えかけるかのように話しかけてくださいます。
「別に無理して静岡に戻ることないんじゃない?」
「いや、でも、まあ」
「まあ、落ち着いて。コーヒーでも飲んで」
大ぶりで白い、歯磨きの時にでも使いそうなプラスチックのカップに入ったコーヒーが出されました。カップには『ebisu』の文字が入ったブランド名のシールが貼られていました。オールアバウトの本社は、JRの恵比寿駅から歩いたところにあるのを思い出しました。
(2003.12.1)
(つづく)