No.20 ヤバくなったら逃げる場所

 結局、オールアバウトのサイト閉鎖の翌日の5月10日が、わたしの『株式会社アトラクティブ・アド』の退社期日となりました。

 10日の朝、わたしはピンクのベストを着て家を出て、笹塚駅から電車に乗りました。ほどなく京王線は新宿駅に到着しましたが、駅の通路を歩きながら、わたしはどこかしら落ち着かない思いにとらわれました。

「自分は、自分の気持ちに嘘をついていないか?」

 わたしは、本当に会社に感謝しているだろうか? いや、してはいない。いや、正確に言うと

「会社には感謝しているが、橋本勝夫には感謝していない」。

 勝ち誇った橋本次長の高笑いが聞こえてくるような気がしました。このまま、あの男の思うままにすべてを終わらせてはならない。せめて、最後ぐらいは、ささやかな抵抗をしたい。そう感じたわたしは、新宿駅で下車せず、中央線に乗り換えました。四谷駅で電車を降り、通勤の人たちが歩く中を、あえてちょっと方向をずらしてお堀ぞいの桜並木の中に入り込みました。周りに人が誰もいなくなって緑の木々に囲まれると、わたしはようやくほっ、と息を吐きました。木のベンチにぺたん、と座りこみ、しばらく考えました。

・・・今日、わたしが、このピンクのベストを着たことは正しい選択だったんだろうか? せめて、服だけでも着替えて、出直すことにしよう。

 そう思って、わたしはいったん家に戻ることにしました。しかし、家の中に入ったらもうダメでした。会社という空間に行く気力をわたしは完全に失い、ベストを脱ぎ、シャツも脱ぎ、白いタンクトップとショーツだけになると、ふとんにもぐりこみました。電話のベルが鳴りました。10回鳴って、切れました。もうこれ以上あの男に怒鳴られたくありません。電話を留守番モードにセットしました。

 昼近くに、ふたたび電話が鳴りました。留守番メッセージが流れました。FAXが入ってきました。

「会社に連絡しなさい。橋本」

 徹頭徹尾無視することにしました。幸い、食べ物は家にあります。一日二日は家にこもっても大丈夫でしょう。わたしは、眠ることと食べることだけでその日一日をどうにかやり過ごしました。

 翌朝6時。わたしは、会社に「今週いっぱいお休みをいただきます」とFAXを送りました。そして朝8時半。こちらにFAXが入りました。

「アトラクティブ・アドの橋本です。連絡を入れてください」

 次長の名乗り方が昨日とは異なっていました。もうわたしはこの男の部下ではない、この人に命令されることはない。そう考えると、少しほっ、としました。わたしはふたたびふとんにもぐりこみ、眠り続けました。

 どれだけ眠っていたのでしょうか。ヘリコプターの音がうるさくて目が覚めました。というより、ヘリコプターの音がやかましくて眠っていられなくなった、というのが正確なところです。長袖のTシャツにジーンズという姿になり、パソコンを立ち上げ、メールブラウザを開きました。オールアバウトのエンタテインメントチャネル全体の一般読者向けのニュースレター(注28)が届いていました。ニュースレターのおしまいには、毎号プロデューサーの飯野さんのコラム『ヤバくなったら逃げろ!』があります。そこには自分にとってだけ衝撃的な言葉が書かれていました。

「この連休中は、仕事でずっと警察サイトにはりつき、すっかり警察サイト通になってしまいました」

 ・・・えっ! 

 そして、コラムの最後には『あなたのラッキーアイテム』なるコーナーがありました。そこに書いてあったのは『警察のヘリコプター』。

 もちろん冗談半分でしょうし、こんなもんを信じる人は他にはいないでしょう。けれども、なぜ、さっきから、わたしの家の上空をヘリコプターがばたばたとやかましく飛び回っているのでしょうか。そして、飯野さんは何の必然性があって警察サイトにはりつかなければいけなかったのでしょうか。いったい何があって、何を知ろうとして、何をどう調べようとして、警察サイトを見る必要があったのでしょうか。その不安な思いにダメ押しをしたのが、ニュースレター文末のプロデューサーとしての飯野さんの名前の表記でした。『飯野正樹』が彼のフルネームです。しかし、その表記がなぜか『ブライアン飯野』に変わっていました。つまり、警察と関わらなければならないような事情が発生して、つまり表向きに本名を出すことができないようなことが起こり、とりあえずオチャメに『ブライアン』などと名乗ってしまっているのではないだろうか(注29)

 わたしは警察に行かねばならない、と思いました。もうわたしの上司は橋本勝夫ではない、アトラクティブ・アドでもない。今、わたしの上司はリクルートなのだ、オールアバウトなのだ、そう思いました。

 何か食べてからいったん表に出よう、と思い、冷蔵庫から食べ物を出して、焼きうどんを作ろうとしました。しかし、どういうわけかうどんはフライパンの中で野菜とともに炒めれば炒めるほど崩れ、味もつかず、水っぽく生ぬるくてとても食べることができないような代物にしかなりませんでした。わたしは料理をあきらめ、うどんをごみ箱に捨てました。そして空腹のままふらふらと外に出ました。ヘリコプターはわたしの頭の上を飛び回り続けています。機体の『警察』の文字がはっきり読み取ることができるほどの低空飛行です。

 わたしは笹塚駅の改札前の売店に足を運びました。毎日、ここでわたしは新聞を買っています。会社で朝刊は読むことができるのですが、夕刊はなかなか読むことができないので、ここでまとめて何紙も買って、家でじっくり見るのです。しかも、会社に行っていないので、今日は新聞を見ていません。買わなくては、と思いましたが、駅売りのスタンドには新聞は置いてありませんでした。わたしはちょっと離れたところからスタンド全体を見回し、考えて定期券で改札の中に入り、改札の中のスタンドから新聞を抜き取りました。そのとたん、ふたりいた店員のおばちゃんのうちのひとりが、猛烈な勢いで売り場のスタンドの外に出て、物凄い表情で残っていた新聞を片付けはじめました。何? 改札に入って新聞を買うのはそんなにまずいことなのか? そう思いましたが、わたしはそれを無視するかのように平然とそこにあった新聞を一部ずつ買い、それだけで定期券で改札を再び出ました。

 新聞を山のように抱えたわたしは、警察に自首してすべてを打ち明けよう、と思いました。しかし、この先のことを考えると何かおなかに入れなくては、と思いました。ヘリコプターが上空を飛ぶ中、わたしは笹塚駅前の『なか卯』に入り、親子丼を食べました。これではまるで犯罪者ではないか。いや、わたしは犯罪者なんだ。自動販売機を壊してしまった、喫茶店をつぶしてしまった、その原因を作った奴として、わたしはこれから事情聴取を受けるんだ。そう思いながら、わたしは親子丼を懸命に口に押し込み、全部食べました。

 笹塚駅前の交番に行きました。交番には年配の穏やかな表情をした警官が座っていました。トイレを借りにきた男性が交番を出てから、戸を閉め鍵をかけ、わたしへの問いがはじまりました。

「どうしたんですか?」
「・・・あの・・・わたし・・・警察に追われていませんか?」
「まずは名前と住所を言ってください」

 警官は、わたしの話をばかにするでもなく、しかしいなすように静かにあいづちを打ちながら、話を聞いてくださいました。そしてその後、警官はわたしの原付免許証を片手に奥に入り、しばらく何か調べているようでした。そしてふたたび免許証がわたしの目の前に置かれました。

「あなた、何も被害届とかそういうのは出ていませんよ。そういうのが出ていれば別ですが、何もないですね。たくさんの人が警察に呼ばれますが、何もなしに帰されるというのは幸せなことだと思いなさいよ。会社を辞めさせられそうだというのならば、生活が苦しいのならば、区役所なりどこなりに行って相談してお金を借りるなりしてごらんなさい。そういうためにあなたは働いて、税金を払っているんでしょう?」
「ありがとうございます」

・・・でも・・・あの・・・駅の売店は・・・ヘリコプターは・・・では・・・。

 しかし、そのことを口にするのはためらわれました。妄想でしかない、と言われてしまいそうでしたし、ヘリコプターが飛ぶ理由が全くわたしと関係ないことだとしたら、それこそ誇大妄想狂だと思われて笑われてしまうでしょう。しかし、だとしたら、なぜ、飯野さんは・・・・

 何をどう話せばいいのか、理解してもらえるのか、完全にわからなくなりました。

「・・・あの」
「何ですか?」
「ちょっと泣いていいですか」
「いいですよ」

 警官に見守られて、わたしは交番の机につっぷし、大声で泣きました。

 ひとりきりでは泣くこともできないほど辛いんです。苦しいんです。誰の前でも泣けません。泣いてもわかってもらえないんです。受け止めてもらえないんです。こんな場所くらいしか泣けるところがないんです。飯野さんはヤバくなっても会社という逃げる場所があるのかもしれません。しかし、今のわたしに逃げる場所はありません。会社でもない、オールアバウトでもない、家でもない、男ともだちでも女ともだちでもない、もちろん警察でもない。誰か、いったい、何が、どうなっているのでしょうか。教えてください。

 けれども、今、自分の置かれた環境と情報とを受け止めきれず、頭の中がオーバーフローしつつある現在のわたしの言葉を、利害関係と感情にとらわれずにすべて受け止めて聞いてくださった上で、冷静に状況を判断してきちんと答えを出してくれることができるような方は、どこにも探し出せそうにありません。

 交番を出て、甲州街道沿いの空を見上げたところ、ヘリコプターは消えていました。

(2003.11.4)
(つづく)


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