ことが済んでも抱き合ったまま、佐藤くんとわたしは眠ることができませんでした。オールナイトライブからの興奮が続き、妙に神経が冴えてしまっています。それに、おなかも空いてきました。
「外に行きましょうか・・・」
「うん」
ふたりは服を着て代々木上原まで歩き、駅前ガード下の『なか卯』に入ることにしました。そこで、わたしは大声で泣きじゃくりながら、オールアバウトがオープンしてからのすべての出来事を話しました。
「誰に言っても迷惑かけちゃうからさあ、君ぐらいしかいないんだよ、言える相手が」
「そうだよねえ、俺、何にもできないもんなあ」
「オールアバウトの挨拶であちこちに行ったりして話したりしていろんな人に会ったけど、なぜだろう、その時ね、わたし、みんなに『さよなら』言ってるような気がしてしかたなかったんだ。どうしてそんなこと感じたんだろう、なんでそう思ったんだろう」
「うんうん」
佐藤くんにとっては、自分は紺屋高尾なのかもしれません。けれども、演芸業界の方々にとっては、そしてネットの中では、わたしの存在は落語『お直し』(注19)に出てくる最下層の元おいらん『蹴転(けころ)』なのではないだろうか。そんなことを思いながら、わたしは肉うどんとかやくごはんをたいらげつつ、ひたすらに話を続けました。
「・・・・そういえば、あのさあ」
「何ですか?」
「ちなみにね、ちょっと教えてほしいんだけど、『紺屋高尾』は誰の噺を聞いたの?」
「えーっとですねえ、立川キウイさんのを聞いたんです」
ものすごくがっかりしました。
「えっ、キウイさんの?」
「はい」
「えーっ!」
「いや、でも、良かったんですよ」
「あ、そう・・・」
わたしにとっての『紺屋高尾』は、立川談春師匠の高座のそれでした。彼の落語の中の高尾太夫は、真っ白でしっかりとした半紙に、くっきりと鮮やかに墨で描かれたような美しい輪郭を持っています。わたしは、その高尾太夫の像を自分にだぶらせて、ちょっといい気持ちになっていました。
ですが、前座歴13年の立前座、立川キウイさんの描く高尾太夫は、いわばしわくちゃのわら半紙にちびた鉛筆で描かれた子供の落書きのような、ぐぢゃぐぢゃの姿で立っている、そんな代物でしかないように思えてなりませんでした。ただ、そうまでしても高尾太夫の姿を描きたかった、その中に高尾を見出したかった久蔵の思いは重々わかる、気はするのですが。しかし、立川キウイ、の、紺屋高尾、ですか。・・・。それだったら、まだ、立川談春の、蹴転、の、ほう、が、まし、な、よう、な、気、が、・・・・。
そして、佐藤くんにはきちんと伝えておかなければならないことがひとつありました。
「わたし、はっきり言ってあなたのことそう好きでも何でもないのよ。それでもいいの? わたしは演芸界全部と寝てしまったんだよ。落語の世界ぜんぶと関わってしまったんだよ。けれどもわたしと寝たことを誰ひとり認めることができないんだよ。それでも落語のすべてとあなたとでは、落語のほうが魅力的なんだよ。それでもいいの?」
「そうっすよねえ・・・・・」
食事が終わったふたりは、ただただ井の頭通りを歩き続けました。その道すがら、そしてたどりついた明治神宮で、佐藤くんは、自分のことをいろいろ話してくれました。お母さんが早くに亡くなり、現在、お父さんとふたり暮らしをしていること。一時、いろいろなごたごたに巻き込まれてちょっとヤバめの事務所で下働きをする羽目になったり、住んでいる場所にいられなくなりそうになったりして、その時には、大好きな高田文夫先生がらみのライブを見ることができなくなるのでは、と悩んだりしたこと。
地方から出てきたひとりのおねいちゃんとして、ライブを見ることができなくなってしまう、ということへの恐怖にも似た思いは、痛いほどわかりました。それは、立川談春師匠を見ることができなくなる、と、わたしが静岡の実家に戻ることができない理由のひとつと少なからず重なりました。
「俺のラジオでのペンネームは『菊次郎のケツ』つーんですけど」
「きくじろうの、ケツ・・・・?」
「ほら、菊次郎ってわかります? ほら、あの、『菊次郎の夏』」
「あー、北野武の映画」
「タケちゃんのお父さんの名前が菊次郎って言うでしょう。ペンキ屋の親父でさ。俺、ペンキ屋もやったし、頭も悪いし、その程度の男だけれども、自分の恥ずかしいケツを見せるくらいのことをすれば強くなれるかなあ、と思ってつけたペンネームなんすよ。でも、俺、強くも何ともないし・・・」
そんなことない。わたしをライブに誘ってくれた君は、とっても強い男だ。そして、ちょっとだけ、おっちょこちょいかもしれない。
佐藤くんは、わたしが受付をしていた立川志らく門下の前座、立川こらくの会に来るお客さんのひとりです。お客さんが、受付係のわたしですら来なかった彼の会の唯一の観客として、立川志加吾さんの漫画『風とマンダラ』に登場してしまったこともあります。ラジオ番組『ラジオビバリー昼ズ』関係の話から立川流の前座さんの話まで気がねなく、かつ唯一できる相手として、彼がわたしに気があることはわかっていました。しかし、彼が落語にそう詳しくないことなどから、意識的に彼とは距離を置いていました。いや、それ以前に、あまり男性として意識していませんでした。落語会が終わったあと「食事をしませんか」と言われてそっけなく断ったこともありました。
とはいえ、どういうわけか、それぞれ落語会の打ち上げの後に、お酒に酔ってつぶれてしまい、介抱しあったことはあります。わたしは秋葉原駅の階段をかけ上がって浴衣姿でもどした時、そして彼は総武線の車内で横になってのびてしまった時。どういうわけか、互いがそばにいました。しかも佐藤くんがのびてしまった時は、よりによって総武線が事故で一時間あまり止まってしまい、わたしは、混んだ電車のイスを占領して真っ青な顔で横になっている彼を、微妙に距離を置いて困った顔で見守るしかありませんでした。こんな相手は彼だけです。そして、今も。なぜ、彼はわたしのそばにいてくれるのでしょうか。
「今日はこの後どうするの?」
「俺、家元のガレージセールに行きたいんですけど、どうしようかなあ、と思って・・・」
毎年一度、春、落語立川流家元・立川談志師匠の根津のマンションの一階では、不要品を処分するためのガレージセールが開かれています。買った品物には、家元がひとことサインを付け加えてくださいます。
「あら、それ、今日だった?」
「そうなんすよ。で、どうしようかなあ、と思っているんです」
この後、ひとりになるのはこわかった。けれども、演芸には別々に関わらなければいけない、と思いました。オールアバウトは自分ひとりで背負わなければならない。佐藤くんとオールアバウトは関係ない。彼には彼なりの演芸との関わり方がある。彼は立川流の前座さんたちに愛されている観客のひとりです。
「それは絶対に行くべき。行ったほうがいい」
地下鉄の明治神宮前駅の入り口で、わたしは佐藤くんの背中をぽん! と叩いて見送りました。
「行ってらっしゃい!」
わたしはひとりで家まで戻りました。
家に戻ってパソコンの前に座り、メールチェックをしました。特にどうというメールは入っていませんでした。オールアバウトに飛びましたが、オールアバウトのサイトの状況は何ら変わっていませんでした。次に、『2ちゃんねる・伝統芸能板』を開きました。衝撃的なスレッドが立っていました。
1・重要無名文化財:古今亭 右朝氏(ここんてい・うちょう=落語家、落語協会員、元橘流寄席文字書家、本名・田島道寛=たじま・みちひろ)が二十九日午前五時二十二分、肺がんで死去、五十二歳。
古今亭右朝師匠逝去。しかも、亡くなった時刻は、朝の5時過ぎで、ちょうど『朝まで雑歌屋サン!』が終わった直後の時間帯です。
「右朝師匠を殺したのはわたしなんだろうか・・・」
自分がこんな状況の中、ライブなどを楽しんでしまったから、右朝師匠は亡くなってしまったのではないだろうか。そんなことは絶対ないとは思うのですが、どこかで何かがつながっているようにしか思えません。いぶし銀のような渋みと粋さと軽さ、そしておかしさを合わせ持つ、そんな魅力を持った右朝師匠が亡くなったという事実を、落語を知らない人にどう伝えるかが、自分に課せられた仕事なのだ、と思いました。しかし、その一方で、目の前の現実にどう対処すればいいのか、自分はどう動けばいいのかが全くわからなくなっていたのも事実でした。
まずは、おふたかたへの手紙をきちんと書き直そう、と思いました。右朝師匠の死、という厳粛な事実が『紺屋高尾』という言葉にドラマティックに浮かれていた自分の思いに水を差しました。『紺屋高尾』という言葉に自分が何を感じたのか、そしていったい何があったのか、素直に言葉を書こう。そして、それを万里さんを通して大友さんに伝えてもらおう。
わたしは、押し入れの中から久しぶりにワープロの『ルポ』を取り出し、コードをつなげて電源を入れました。パソコンはもちろんありますが、実はプリンタは持っていなかったので、すぐにプリントアウトしたい場合には、ワープロを使うしかなかったのです。
口に出すことが許されない出来事を、現在の状況を、どうやって表現しようか、と懸命に考えました。『さようなら』という言葉を使うと、それは生涯の別れになってしまうような気がして、断じてその言葉は使わないようにしました。
文章を打ち終わった後、インクリボンと用紙をワープロにセットして、白い上質紙に言葉をプリントアウトしました。『紺屋高尾』というひとつの言葉を中心に、ワープロの前で、少なからず混乱していた現実がひとつの物語となり、まとまってゆくのがわかりました。タイプアウトした文章は、A4の紙に3枚となりました。それを手元にあった履歴書用の白無地の封筒に収め、何も書かずに封をしました。
(2003.10.18)
(つづく)