2002年12月第3週

 いよいよ年末も押し迫ってきましたが、正月には餅食って酒飲んでのんびり過ごしたいので、やるべきことはやっておかないと、と思いながら、やり残してしまうことの多い例年なんですが、今年は年明けの公演がないし、忘年会以外の演劇関係のことがひとまず済んだからか、ちょっと余裕があって、昨日の日曜はポッカリ予定が空いたので(本当ならオキナワ月光舎の公演で沖縄に行けるはずだったのが、仕事の関係で行けなくなってしまったのが、仕事が急にズレたんで)、今年最後の競馬をひとりで楽しんできました。何しろ有馬記念ですから! といっても、神奈川から中山競馬場までは遠いので、行ったのは東京競馬場です。

 そういえば、この欄で競馬のことを書いたことはなかったと思いますが、実は私は競馬歴も結構長くて、思えばタニノムーティエとアローエクスプレスの闘いが私を競馬にのめり込ませてくれたので、もう30年以上になりますね(当時、中学生でした)。何しろ、その後、師匠というにはおこがましいですが、演劇の世界で一番影響を与えてくれた寺山修司氏を知ったのも、最初は競馬の世界だったんですよ。当時は、寺山さんが競馬中継のゲストに出ると馬券が荒れるという定説が出来たりしましたし、寺山さんの中央競馬会のコマーシャルもかっこよかったんですよ。今から26年前、明治大学の劇団螺船というところで寺山作品(『疫病流行記』)をやることになって寺山さんに初めて会った時も、ほんとは競馬の話をしたかったほどですからね。

 寺山さんの競馬エッセイも大好きでみんな読みましたが、寺山さんが好きだった吉永正人騎手のミスターシービーがシンザン以来の3冠を取った年に、3冠に輝くところを見る前に寺山さんが亡くなってしまったのが残念で仕方ありません。その後も続けてシンボリルドルフが3冠を取ったり、さらに10年後ナリタブランアンが3冠に輝いたり、メジロラモーヌが牝馬3冠を取ったり、私や私の子供たちも大好きなオグリキャップが出て来たり、馬券の種類が広がったりと、いろいろ競馬界もおもしろくなってきたので、寺山さんが生きていたら何ていったか聞いてみたかったですね。

 さて、東京競馬場ですが、今は改装中で、来年の春まで競馬は開催出来ませんが、場外馬券売り場としては開いていて、結構多くの人が来てました。行ったのは久しぶりだったんですが、いやぁ、きれいになってるんで驚きましたね。11月に出来た新スタンドというのがすごくて、他の競馬場はどんどんきれいになってるのに東京競馬場だけが昔のままだったのが、ようやく出来てきたって感じになってました。室内は全部禁煙で煙くて汚い感じもなくなってるし(愛煙家のための喫煙コーナーはあります)、吹き抜けがあって広い感じがするし、食べるところも集中してるし、中でも室内の大きなスクリーンで多くの人が一緒に楽しめるスペースが出来たのがいいですね。私も最初はスタンドに座って外のスクリーンを見てたんですが、やっぱり寒いので室内に移動して見てました。工事中の真ん中のスタンドやコースも含めて、全部完成するのが楽しみですが、場外馬券売り場としては開いているので、また行きたいですね。

 馬券の方は、まぁ取ったり取られたりで、有馬記念もシンボリクリスエスからの狙いはよかったんですけど、まさかタップダンスシチーが2着に来るとはねぇ。データから3歳馬と古馬(特に5歳馬)の組み合わせは狙ってたんですが、タップダンスシチーは斬りました。コイントスも狙っていて、ワイドなら1着3着で取れてたんですけど、有馬は馬連と三連複で勝負してたんでダメでしたね。引退レースで復活を期待したナリタトップロードも4着で残念でした。でも、いつもはA−PAT[JRAの電話投票](最近はパソコンか携帯のiモードから)が多いので、久しぶりに東京競馬場に行って楽しかったですね。競馬の話についてはいずれまた。正月明けも金杯に行くと思います。

(12.23.2002)
(つづく)


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