そういうわけで、この話はここで終わりです。
家元が素晴らしい? オチをつけてくださったので、この話をおしまいにすることにしました。
静岡に戻ってから二年と半。
商売柄もありますが、必ずしも演芸に関しての情報がじゅうぶんに入る場所にいない分、メディアの中で演芸がどう取り上げられているか、どう言及されているか、ということに対して、今まで以上に敏感になりました。そして、それが今の自分にとっての演芸との関わりとなり、また楽しみ方のひとつにもなりました。
書いていることだけではない、書かれていないことが何であるか、表現されないことが何であるかを考えることで、見えてくるものがある。わかることがある。伝えたつもりでも、届いていないことがある。それを「そういうものだから」と暗黙の前提のうちにわかった気になって、黙って受け止めていていんだろうか?
演芸の内輪の状況についてはわからない。けれども、その状況を伝え、とりまくメディア、そして社会というものに対してはちょっと「はす」に構えて、そして芸人さんのパフォーマンスそのものに対してはあくまでも素直なひとりの観客として。
先日「『大江戸演芸捜査網』でこういうことをしたいんですけれども」と、大友さんにメールでご相談したところ、「トラブルを避けるためにはやらないほうがいいと思います」と言われてしまいました。まあ、今すぐにはできないでしょうが、トラブルが起きることを恐れて閉じこもるのではなく、トラブルが起きたとしても、それを理解の糸口にするために、そしてきちんと対処する。そうやって書くことを、書いていただくことを、そして取材を、できる範囲で少しずつ続けてみるのもいいんじゃないかな? そう思うようになりました。
誰も記録しない、今あたりまえとされていることを、また、黙っていると消えてしまうような観客の側からのささやかな物語を、書くことによって誰かの記憶に残してゆくことができれば、と思います。
わたしが「紺屋高尾全力疾走」を書いたのは「ひとりの観客としての佐藤くんを書き残しておきたかった」からです。佐藤くん、ありがとう。
あ、そういえば、連載中に立川こらくから電話がかかってきました。
「ああ書いてあるけれども、俺んとこにあの額、ないぞ」
「親御さんに聞いた? 警察に聞いた?」
「親も知らない、って言った。で、警察に聞いたら『被害届出した時期がわからないと書類を調べられない』と言われた。俺、引越ししたのいつだっけ?」
そんなもんこっちが覚えてるわけありません。誰か、立川こらくに、どうすれば額を取り戻すことができるのか、教えてやってください。
この文章を書く上で、全力疾走の背中を押してくださった方がおふたかたいらっしゃいます。ひとりはこちら、週刊Stagepowerの神保編集長。連載をご承諾くださり、的確なアドバイスを随時いただき、ありがたかったです。そしてもうひとり、「たくり」さん。昭和51年から「東京かわら版」の読者で、会社員としての立場と演芸業界の事情をともに理解できる、しかし演芸関係者ではないこの方が同じ県内にいらした、ということがわたしにとっての大きな支えになりました。あと、連載中に、そして現在までにメールをくださった少なからぬ皆さま。ありがとうございました。
そして、この出来事で、そしてわたしがここでそれを書くことによってご迷惑をかけた皆さま。
「ごめんなさい」。
けれども、どうすればいいのかほんとうにわからなかったんです。今もわかりません。誰に相談すればいいのかも見当がつきませんでした。それは今もかわりません。ただ、これからも試行錯誤しながら書き続けてゆくことを、どうか、お許しください。
この出来事について、そしてわたしについていろいろ言う方はいらっしゃるとは思います。けれども、その方々は、あなたが演芸について興味を持っている、ということを素直に示せば、きっと、あなたにとっては、力になり得る、いい方です。それだけ、皆さん、演芸に熱意を持って関わっていらっしゃいます。そして、演芸の世界というのは、楽しく、そして時には足をとられかねない危うさも持つ、けれどもそれゆえに関わることをやめることができない。そういうところだと思います。
演芸界にとって、そして読者の皆さまひとりひとりにとって。この一年が、どうか、よりよきものになりますように。
鳥袴(とりばかま)たつみ(ばかま姐さん)
(2004.1.1)