5月15日火曜日、朝。
「火事です! 橋本で、今、火事です!」
テレビから聞こえてきた声に、わたしは思わず固まりました。まだ次長は怒っているのだろうか。テレビの画面の向こうでは、住宅がどす黒い煙を吹き上げて燃えていました。それは、テレビが、わたしに対して橋本勝夫の怒りのメッセージを伝えようとしているのだ、そう思えるようでした。足がすくむような思いにとらわれながら、それでもわたしは化粧をして、黒の千鳥格子のジャケットに黒いズボンをはき、どうにか会社に行く準備は整えました。番組が終わる直前です。
「橋本の火事、鎮火しました! 火事はおさまりました!」
ほっ、としたわたしはテレビを消し、立ち上がって家を出ました。ところが玄関を出て鍵を閉めて階段を降りようとしたとたん、足を踏み外してどどど、とわたしは数段階段をすべり落ち、足のすねをしたたかに打ちました。わたしは痛さにも無表情を装ったまま残りの階段を降り、笹塚駅から電車に乗って会社に向かいました。閉ざされた喫茶店を横目に見ながら会社にたどりつきました。喫茶店のネームプレートは既に外されていました。
オフィスに入り、9時になりました。朝礼の後、わたしは次長に別室に呼ばれ、退社関連の書類に判を押しました。くっ、と小さな吐き気が胃の奥からこみ上げました。
「まあ、いろいろあったけれども」
「いえ、こちらこそ、いろいろご迷惑をおかけしました」
頭を下げると同時に、涙があふれました。
「辞める理由のところには『自己都合により』と書いてください」
・・・はあ。
「今後のことは保証人さんとよく相談するように」
退社手続きは30分程度で終わり、わたしはまたもや次長とシャノアールに行きました。
「先週だったらどうにかなったんだけどなあ、昨日はもう手続きが進んじゃってなあ、すまないなあ」
本当に、この人は、心からすまない、と思っているのだろうか。そう思いながらしばらく話をして、オフィスに戻りました。事務のふたりと何人かの営業さんが残っていました。坂下さんの顔も見えました。
「それじゃあ・・・」
ロッカーにあった荷物をまとめ、次長につきそわれるような形でわたしはドアの前にたどりつきました。
「ありがとうございました!」
ドアの前で、大きな声で小さくおじぎをすると、一瞬、緊張したような空気がオフィスに走ったように思いました。わたしは「さようなら」を言うことも許されないのか。
「次長!」
佐伯さんが立ち上がって声を発しました。
「わたし、ちょっと最後に金澤さんと話がしたいんですよ。いいですか?」
「・・・ああ」
次長があいまいにうなずき、佐伯さんがわたしのそばに駆け寄ってきました。
「この後時間ある?」
「ええ、まあ」
ふたりでオフィスのドアを閉めてエレベーターに乗り込み、扉がゆっくり閉まって一階へと降りてゆきました。と、佐伯さんがエレベーターの中で泣きながらしがみついてきました。
「・・・金澤さん、どうして会社辞めちゃうのよ!」
しかたないよ、どうすることもできなかった、こうすることしかできなかった。
「ごめんなさい、ねえ」
泣いてはいけない。そう思ったわたしは顔いっぱいに精いっぱいの歪んだ笑いを浮かべて、胸に飛び込んできた佐伯さんを抱きとめました。エレベーターの扉が開くと同時に、涙でゆがんだ彼女の顔はきりっ、としてかつ愛らしいふだんの表情に戻りました。
「ちょっといっしょにお話したいけど、いい?」
「うん」
シャノアールに(わたしは)もう一度入り、奥の席でアイスカフェオレを飲みながら、ふたりは会話をしました。
「迷惑かけちゃって、ほんとうにごめんなさい。こんな辞め方する人って今までいなかったでしょう?」
「ううん、そうでもないよ」
「あら、そうなの?」
「えっとねえ、昔、仕事の関係の人と・・・。で、妊娠しちゃった子がいて、その子も同じような辞め方したの」
「・・・はあ・・・?」
わかったような、わからないような話です。
「かなざわさん、先週、会社休んでずっと家にいたでしょう」
「・・・ああ・・・ねえ・・・」
確かにそうです。わたしは、当初退社する予定だった日に会社を無断で欠席しました。ですが、その時身にふりかかってきた(と思われる)出来事を思うと、素直に彼女の問いにうなずくのもためらわれました。
「次長がかなざわさんちの近所まで行ったんだよ。そして会社に電話かけてきて『絶対に家にいる』って言ったんだ」
・・・・ふーん。ヘリコプターが上空を飛ぶ中でおろおろわたしの家の周りを歩きまわる次長の姿は容易に想像がつきました。
「あのね、かなざわさんは知らないだろうけど、今回ね、けっこう裏でいろいろあったんだよ。山崎課長が個人的にこんな人と知り合いなんだ、と思うとこわい時もあったな」
佐伯さんは「こんな人」と言いながら、ふっくらとしたほっぺたに人差し指をななめに当てました。
山崎課長は、わたしが広告調査部から新宿営業所に異動した直後、歓迎ということで、当時一緒に働いていた女性の久保田さんとわたしを池袋演芸場のお向かいのビルのホストクラブに連れていってくださった方です。
「ふーん。そうなの?」
「うん、まあ・・・ね。で、会社辞めてこの先どうするの?」
「ううん、まずは実家に帰るかな」
「そっか。静岡だっけ?」
「うん。でも、まあ、人生いろいろあるから」
「そうだよねえ」
「何十年か経ったらさあ、町でばったり会って『あら、金澤さん!』『佐伯さん!』なんて言ったりして」
「女ってけっこうたくましいし」
「お互い子供抱えてたりして」
「あ、それいいなあ」
「ほんとほんと、あはははは」
そんな日が来てくれるといいよね。きっと来るよね。心の底からそう思いました。
佐伯さん。見た目はわたしよりも若くてかわゆいのに、実は年上で既婚で、十年以上この会社で事務を続け、取引先の新聞社の広告局の方と結婚してからも仕事を続けているあなたのさりげないしたたかさと可愛らしさに、年下で未婚のわたしは仕事をする上でかなり助けられていました。どうか、できる限り、この会社に居座ってください。
事務職の女の子が会社で働き続けるということは、いかにうまく「居座る」か、ということなのだ。それは、いくつかの会社で13年間OLを続けてきて、肌で感じた現実でした。この会社ならば、そうやって働き続けることも可能かな、と思っていました。けれども、それだけでは東京でのひとり暮らしが立ちゆかなくなってしまいました。この会社の仕事でなかなかそれを解決することもできず、不満をどうにかしようとして、オールアバウトという場を得て経済的にも仕事的にも解決に向かっていたはずなんだけれど。どうしてこんなことになってしまったんだろう。
佐伯さん、次長の頭を抑えていてください。そして、次長の味方でいてあげてください。橋本さんも、家ではいい父親であり、夫でもあり、実は孫もいるいいおじいちゃんなのでしょう。会社の電話から、いちおうこっそり家の改築の件で自宅に連絡をとる姿は、ほほえましくもありました。
でも、表向きは無視する態度をとりつつ、金だけ出して飲み会をやって励ましたふりをして、それが無駄になったとわかった瞬間から卑屈になった態度に対して、わたしは、部下としてあなたとどう向かいあえばいいのかわからなくなってしまいました。そちらも、どう取り扱っていいのかわからなくなってしまったのでしょう。そして、雑誌に掲載されてしまう、とあらぬ誤解をした部下に対して、責任を上に押し付けてはいけないと必死だった。わたしはそう理解しています。ただし、わたしの判断が正しかったのかどうかは、もう知るすべはありません。
橋本さん。あなたは上司として、次長として、部下の扱い方に少なからぬ問題があると思います。
ある日、久保田さんに、終業後新宿アルタの地下のコージーコーナーに誘われました。出てきたケーキを食べようとした時、彼女が泣き出しました。
「この間、仕事が終わってから橋本課長に食事に誘われました。そうしたら・・・」。
とたんに、口に入れたケーキの味がなくなりました。どうしたらいいものか、話を聞きながら、本当に困りました。わたしはそれを当時は別のセクションにいた佐伯さんに相談しました。その後「わたしは黙っていたほうが良かったのかもしれない。ばらすなんて課長に申しわけないことをしたのかもしれない」と、男性がいない時にオフィスで激しく泣き続ける久保田さんを、職場の唯一の同性として、わたしはそのそばに黙って「いる」ことしかできませんでした。彼女はその直後別のセクションに異動となり、佐伯さんが代わりに新宿営業所にやってきて、橋本さんは課長から次長に昇進しました。
「次長になった時、都築さんは俺たちに向かって『君たちのおかげだ、どうもありがとう』と言って頭下げてくれたんですよ。それなのに橋本さんは何なんですかねえ、ただ黙って社内報回覧しただけで!」
ふだんは温厚で無口な、営業の広瀬さんが怒っている姿をわたしは見たことがあります。
橋本次長。ご存じないでしょうけれども、いや、ひょっとしたらご存じだったのかもしれませんが、4月10日、わたしは、立川こらくといっしょに「近松心中物語」を見たかったんです。オールアバウトと演芸業界を勝手に背負ってしまったわたしは、アトラクティブ・アドという会社を背負ったあなたと戦い、そして30日前の事前通告なしの自己都合退職、という結果を得たのでしょうか。
アイスカフェオレの氷は、話している間にほとんど溶けました。
「でも、偶然て恐ろしいよね。かなざわさん、あなたがこの会社に入っていなければ、そして契約社員でなければ、そしてこの新宿営業所に配属されていなければ。こんなことにはなっていないんだよね」
わたしは全社で唯一の、年間単位での契約社員でした。契約書に判をついて一年間働くわたしは、年度途中で辞めてやりたい仕事に転職する、という勇気を出すことができませんでした。そんなわたしには、他にもさまざまな偶然が重なりました。その偶然は、いつから必然となったのでしょうか。それは『契約社員募集』の新聞広告を見てこの会社に入社した時から、決められていた運命のようにも思えました。
「うん。本当、そう思う」
ふたりは店を出ました。外はまぶしい太陽が輝いていました。
「ありがとう、じゃあ!」
互いににっこり笑い、佐伯さんはオフィスに、わたしは新宿駅に向かって歩き出しました。
(2003.11.16)
(つづく)