5月14日月曜日、朝。
朝礼が終わり、しばらくしてから、わたしは橋本次長に呼ばれてオフィスを共に出ました。
「何だ、家は下北沢駅からも行けるんだなあ」
「はい、いちばんのもより駅は笹塚なんですけれども」
うつむいて次長の後を歩きながら、閉まったままの喫茶店の前を通り越し、シャノアールのコーヒースタンドに入る途中、その言葉が意味するところのものを詮索する気力は、わたしにはもうありません。
退社手続きの話をざっ、としました。翌日が改めての正式な退社日、ということに決まりました。そしてオフィスに戻り、事務担当の大沢係長と女性の佐伯さん、ふたりに最低限の仕事の引継ぎの話をしました。優しい表情をした係長の目は真っ赤になっていました。共に同じオフィスの中で、家族のように顔を突き合わせて仕事をしてきたこの方々と退社という形で縁が切れてしまうということ。それはたまらなく悲しいことでした。そして、この日は仕事はもういいから、ということになり、午前中で会社を出ました。
オフィスを出てすぐ、道を歩きながらMDのイヤホンを耳に突っ込みました。その中には「癒しの曲」とされるものが数曲入れてありました。途中、何曲目の時かは忘れましたが、リモコンのボタンをどう押しても操作が効かなくなりました。そして、勝手にプログラムが暴走し、「00」の文字を表示して止まりました。それは、まるで、リセットされようとしている自分の会社員としての今まで、そしてこれからを暗示しているかのように思え、横断歩道の真ん中で大声で泣き出したくなりました。
家に戻り、食事を簡単に済ませてから、警官に言われたように区役所の出張所に行きました。交番で「区役所に行きなさい」と言われてからすでに数日が経っていました。会社に行く前に、区役所に行くべきだったのかもしれません。しかし、まずは会社のことは会社で話せばどうにかなるかもしれないという希望があったのと、面倒だったのとがごっちゃになって、つい先延ばしにしてしまったのです。
世田谷区、北沢の区役所の支所は下北沢駅の南口にあり、わたしの家からは歩いて15分ほどの場所になります。今までにも、入社する時に住民票の記載事項の証明書をもらったり、いろいろな手続き関連で足を運んだことはもちろんあります。また、上の階にある北沢タウンホールにも、お笑い関連のライブで開場を並んで待ったこともしばしばあります。しかし、こんな究極の事態の時に、訪れる日が来るなどとは、夢にも思っていませんでした。
地下のフロア、相談室は手続きの部屋とは別に小さく存在していました。そこには、白髪まじりの背広姿の男性が座っていました。部屋には先客として相続がらみの相談をしている方がひとりいました。その方が終わり、わたしは相談員さんと向かい合いました。わたしは、ぽつ、ぽつ、と、うつむきながら自分の置かれた状況を話しました。しかし、ヘリコプターのことは、話すことはできませんでした。
「辞表を撤回するように会社に電話してごらんなさい。『何馬鹿なこと言ってるんだ』と言われるだけかもしれませんが、やってみてごらんなさい、見ていてあげますから」
見守られて、会社に電話をしました。
「はい、アトラクティブ・アドです」
「もしもし、かなざわです」
「あ、大丈夫ですか?」
佐伯さんのトーンの高い、しかし暖かい声が聞こえました。
「今、次長いらっしゃいますか?」
「出かけてますねえ。折り返し電話しましょうか?」
それから、むこうからかかってきたのかこちらがかけ直したのかはもう思い出せませんが、次長と電話で話すことができました。
「あの、大変わがままなことを言って、勝手なお願いで恐縮なんですが、やはり会社で働かせていただくことはできないでしょうか?」
「何バカなこと言ってるんだあ?」
次長のひっくりかえったような声が響きました。
ほら、やっぱりそうだ。相談員さんの言ったとおりの展開だ。会社はわたしがどこに行くかも全部知っていて、この相談室にも、相談員さんにも前もって連絡をしているのだろう、と思いました。相談員さんに勧められて、新宿の労働基準監督局にも電話しました。しかし、どうにも相談に乗ってくれそうな風は感じられませんでした。
「お名前だけ最後に教えていただけますか」
「金澤と言います」
最後に、わたしは自分の名前を正直に名乗って電話を切りました。相談員さんは優しくおっしゃってくださいます。
「誰か、どこかに相談できる人はいないの?」
大友さんの顔が浮かびました。けれども、ヘリコプターを飛ばすまでの大事(おおごと)を起こしてしまった自分という存在を東京かわら版という会社は、いや、それのみならず、大友さん個人としても受け入れることはとてもできないだろう、と思いました。その上、わたしはオールアバウトからいただいたギャラで掃除機を買ってしまっていました。いや、実はそれはギャラではなかったのです。実はそれは、払わなければならない五月分の家賃でした。財布にお金を入れたまま、銀行に振込手続をするのを忘れたまま連休に突入してしまい、わたしは、何のためのお金かということをすっかり忘れて、佐藤くんと浮かれていたのです。
もう、わたしには、会社を辞めた状態で今の暮らしをやりくりすることはできそうにありません。カードローンは限度額いっぱいになっていました。これ以上お金を借りたくはありませんでした。自分は完全におかしくなっている、と思いました。今まで、家賃の支払いを忘れる、などということは一度たりともありませんでした。もうこれ以上相談員さんをわずらわせるわけにはゆきません。
「・・・・・そうですね・・・・」
すべてをあきらめ、会社を辞めて静岡の実家に戻る。もう、それしか選択できる余地はありません。北沢支所の相談室の机をうつむいて見つめながら、わたしは大友さんのみならず、東京で縁のあるすべての方々に連絡を取ることを断念しました。
わたしは、こんな形で実家に戻りたくはありませんでした。嘱託でビルの清掃の仕事を続け、定年後も働き続けなければならない父親。手術をしたりして必ずしも体が丈夫とは言えない母親。仲が良いとはいえないふたりの間から、わたしは新聞奨学生という形で上京して逃げました。そして、妹が嫁ぐという形で逃げた後、長女のわたしにはふたりを養わなければならないという義務が課せられました。ふたりからは帰省するたびに、帰ってきてほしい、という無言の圧力がありました。けれども、それをはねのけるように、わたしは、寄席や落語会で落語が聞きたいから、舞台が見たいから、立川談春師匠の噺を聞きつづけたいから、という理由で東京にい続けました。
そして、オールアバウトをやることによって落語について文章を書かなければならない必然性ができたことで、わたしは東京に暮らす理由が、ようやくきちんとできたように思いました。そして、ゆくゆくは、文章での収入で親を東京に呼びよせるくらいの収入を得たい。それくらいの意気込みでいたのは確かです。しかし、その夢も、藤野さんの怒鳴り声で、cabさんの怒りで、すべて否定されてしまいました。そして、わたしが東京にいる理由は、それのみならず東京での居場所はなくなろうとしています。
職を失ったわたしは、親を養うどころか、年老いた親に寄生して生きてゆくような、そんな状態で実家に転がり込もうとしているのです。自分の身すら養うことすらできなくなってしまったふがいなさを思うと、本当に情けなくなりました。もう、泣くことすらできない情けなさでした。
(2003.11.11)
(つづく)