会社を休んだことにより、日曜日までどうにか退社までの時間の猶予を作り出すことができました。土曜日は、一日家事に専念しました。泣きながら、いつ誰が部屋に踏み込んできても大丈夫なように、できる限りのものを捨てました。燃えないごみも、ぶ厚い本も、燃えるごみに混ぜて捨ててしまいました。部屋は妙にこざっぱりとしました。
日曜日は、佐藤くんが遊びに来てくれました。もう、明治神宮に行くのも飽きました。かといって、街の人ごみの中を歩くのも、この状況の中では、こわい。
「変な人がいないような場所に行きたいなあ。どこがいいだろう」
「どこがいいですかねえ」
「あ、そうだ!」
ふたりは恋人のように手をつなぎ、新宿御苑に行くことにしました。春の陽射しとやわらかい緑と親子連れがあふれる中、芝生に寝ころんだり、ベンチで佐藤くんに甘えたりしました。時には強く、そして時には弱く握り返してくる彼の少し汗ばんだ手の感触が、言葉ではなしに「今は大丈夫」「気をつけろよ」と伝えているようでした。
これが最期、という気がしていました。どういう形であるかはともかく、遠からずやってくるであろう最期の瞬間に向けて、わたしは友人でしかない佐藤くんを巻き込んで、懸命に仲むつまじくほほえましくも暑苦しいカップルを演じている。そうとしか思えませんでした。
笹塚駅まで戻り、駅前のコンビニでいろいろと買い込みました。お弁当、お茶、新聞、そしてコンドーム。レジで、ふたりを前に品物をビニール袋に詰め込む若い男性店員の手は、あからさまにがたがたと震えていました。
「ちょっと見せつけちゃったかなあ」
「う〜ん、でも、まあ、いいんじゃない、これくらい?」
「俺、こんなの初めてだよ。逆に見せつけられて悔しい、と思ったことはあったけれども」
嫌味なふたりは手をつなぎ、コンビニの袋をぶらさげて街を歩きました。家に入ってテレビをつけたところ『笑点』のテーマが流れてきました。もうそんな時間か。
「で、木村万里さんがさあ・・・」
そこまでしゃべったところ、佐藤くんがつん、とわたしのわき腹をさりげなくつつきました。彼の顔を見上げたところ、その目はこうしゃべっていました。・・・その名前をそれ以上ここで今言うな。深呼吸してあたりを見回しました。テーブルの上には本が一冊置いてありました。
「それでさあ、この本、面白いんだよ」
「へ〜。それで?」
お弁当を広げた夕食も済み、ふたりがそれぞれシャワーを浴びてさっぱりした頃には、夜もかなり更けていました。佐藤くんが自宅に戻るために小田急線に乗らなければならないタイムリミットも近づきつつあります。
「佐藤くん、今日はどの駅から帰ろうか? 今までうちに来るのに代々木上原から来たでしょ、で、さっきは笹塚からも来たでしょ。下北沢から来てもらったこともあったよねえ。で、どうだろう、今日は東北沢から帰ってみる?」
「いいですねえ」
「わたしのうちがどこにあるかなんて覚えていないほうがいいと思うんだ。どっかから問い合わせが来たりして、わたしの家の場所をきちんと説明できたりすると、怪しまれたりするかもよ」
「そうですね、わかりました」
ふたりは手をつなぎながら暗い住宅街を歩き、井の頭通りを越え、小田急線東北沢駅にたどりつきました。
「それじゃあ、ほんとうにありがとう、また電話する」
「うん、じゃまた」
手をふって駅の改札で別れた後、わたしはひとりで暗い夜道を歩いて家に戻りました。そしてパジャマに着替えてふとんにもぐりこみながら、決意を固めていました。いくら何でも、明日は会社に行かなければならないでしょう。もう、誰も、わたしを助けてはくれないのです。
わたしは、ひとりで、戦わなければならない。
(2003.11.9)
(つづく)