No.8 許せないのは誰なのか(2)

 昼休み、偶然、橋本次長とふたりきりになりました。

「次長、」
「何だ」
「わたしを雑誌に掲載しようとしましたね?」
「・・・何を証拠に?」

 昨夜の酒が抜けきれない赤らじみた顔の目に、おびえと卑屈の色が走ったように見えました。違う、と否定なさるのならば、なぜ涙ぐんだりわたしを弱気な表情で見つめたりするのですか? 違う、というのならば、関係なくわたしに堂々と仕事をさせればいいんです。いつもの通り、怒鳴ればいいんです。なぜ妙に神妙な態度を取るんですか? わたしは部下として、あなたにどう向かい合えばいいんですか?

 次長、あなたが演芸業界の方ならば、そういう態度を取るのもまだわかります。けれども、あなたはそういった芸能や演芸の世界とはまったく無関係な求人広告の代理店の一社員でしかないはずです。どうして演芸業界の価値観でわたしを見るのですか?

「何を言いだすんだ、いったい!」

 いっしょに事務をしている、女性の佐伯さんが部屋に入ってきました。この話は他の人がいるところではできない。

「とにかく後できちんと話をさせてください。お願いします」

電話が鳴りました。

「はい、アトラクティブ・アドです。・・・はい、ありがとうございます」

 その後、神田の本社に、いつものように原稿を届けに行きました。いつもは、新宿営業部を担当するMACの前には、制作担当の原田さんがいます。きゃしゃで体が弱くてしばしば会社を休み、どこかしらひょうきんさを漂わせる彼と、会話のどこかにぎこちなくも暖かさを感じながら、社内のあれこれについてよもやま話をするのが好きでした。しかし、今日は部長と打ち合わせをしていて、こちらを振り向いてもくれませんでした。わたしは、部長の前の彼のかたくなな背中を横目でちら、とながめて、制作部を何事もないかのような顔をして出てゆくしかありませんでした。

 送稿の行き帰り、体のだるさと吐き気はますます強くなるばかりでした。わたしは仕事中も、そしてそして送稿の電車の中でも甘い飲み物が手放せなくなって、この日はいちご牛乳を一本、電車の中で飲み干しました。そして新宿に戻り、会社のあるビルの前の自動販売機でスポーツドリンク『アクエリアス』を買って、わたしはオフィスに戻りました。話をするのは、仕事が終わってからになるでしょう。わたしは就業後も居残るつもりで缶のプルトップを開き、机に缶をどん、と置いたところ、次長が妙におびえた顔をしました。

「・・・おい」
「はい?」
「いや、今暇か?」
「あの、会計やらないといけないんですけれども」
「いいから、今ちょっと話がある、来い」

わたしは次長とエレベータに乗りました。

「別に人に聞かれてもいいだろう?」

 いや、実は、人に聞かれては、すごく困る・・・・。否定する間もなく、エレベータは一階にたどりつき、次長はすたすたと隣のビルの喫茶店に入ってゆきました。小さい、しゃれた、アメリカの地名を店名に冠したカフェです。パソコンショップの隣、ポケットのような小さい三角の空間にあるお店です。アイスモカをオーダーして、奥の席に座りました。ストローでアイスモカを軽く飲むと、わたしは意を決して小さいテーブルに突っ伏しました。

「わあああああああ!」

 あえて、わざと、人目をはばからず、腹の底から大声を張り上げて号泣しました。5分近く泣いていたでしょうか。ひとしきり泣きじゃくり、顔を上げると、困った顔の次長がいました。小さな店じゅうの視線がこちらに集まっています。

「あのなあ・・・」
「はい?」
「・・・大丈夫か?」

わたしは次長を見据えました。

「会社、辞めさせていただけますか」
「何バカなこと言ってるんだ?」
「・・・あの・・・実は、・・・・以前、オールアバウトというサイトで、落語についてものを書く、ということをお話しましたよね」
「ああ」
「その過程で、実は、業界の偉い方を怒らせてしまったんです」
「だからそれがどうしたと言うんだ」
「で、・・・・取引先の社長さんに会わせていただきたいんです」
「・・・何を言ってるんだ、いったい?」

 向かい合っている相手が、けげんそうな顔をしました。

 数年前、「求人広告を出したい」と、一本の電話がオフィスにかかってきました。会社が取り扱う求人広告の大半は、営業の電話や直接の飛び込み訪問による新規開拓がほとんどですから、電話での依頼はありがたい部類のものです。

「こちら東阪企画と申しますが、ADを募集したいもので・・・」

 その時、電話を受けたのはわたしでした。

「何、『とーはんきかく』?」

 やりとりがあって、営業担当となった坂下さんは、社名を聞いてけげんそうな顔をしました。

「知らないのか? 有名じゃないか。澤田隆治さん、って知らないか? 『スチャラカ社員』とか『てなもんや三度笠』なんてテレビ番組を作った人の会社だぞ」
「今だと『ズームイン朝』とかも」
「お前、そんなことも知らないで営業やってるのか?」

 媒体との連絡業務担当の定年間近の小森課長が、わたしの言葉に大きくうなずいてくださいました。

 『アトラクティブ・アド』新宿営業所には、テレビや芸能関係の派手なクライアントはあまりありません。それが、かなり大きい、わたしが好きな演芸に近い会社の求人広告を取り扱うことができる、というので、わたしはひそかに嬉しく思いながら原稿を手配しました。そして、ADの募集広告は、日曜日の朝日新聞に数多く集められた求人広告のひとつとして、掲載されました。そして、じゅうぶんに人が集まってしまったからなのか、それ以降東阪企画からこちらに電話がかかってくることはありませんでした。

「わたしの力では、それをどうすることもできないんです。それで、そこの社長の澤田隆治さんだったら、間に入っていただけるのではないかと思いまして。その方に会わせていただきたいんです」
「・・・いったい何を言っているんだ?」

 周りの目を気にしつつ、それでも怒りながら次長が日頃の自分を取り戻してゆくのがはっきりとわかり、わたしはうつむきながらなぜか少しほっ、としていました。

「行くなら自分で連絡取って行けばいいだろう」
「いや、でも、わたし直接は存じあげませんし、わたしが行ったことで坂下さんや会社に迷惑をかけたりしても困るだろうなあ、と思いまして」

 次長の顔がみるみる赤くなりました。

「何バカなこと言ってるんだ! そんなことができるわけないだろう! きちんと怒らせたという人に連絡を取って『申しわけございませんでした』と言うんだ。そうすればどうにかなるだろう」

 その通りだと思います。けれども、それができる相手ではありません。わたしは、立場的にどうすることもできないはずの相手をゆえなく存在だけで怯えさせ、感情的に怒らせてしまったのです。わたしは、無知ゆえに、立場的にどうすることもできないはずの相手を理由もなく怒らせてしまったのです。

 わたしは会社員としての自分に誇りを持ってきました。会社員としての稼ぎで演芸を見ることを趣味としてきました。その、会社員としての仕事と演芸界の常識とのはざまで、PHSが鳴ってしまったのです。

 わたしは、頭を必要以上に下げてまで、演芸の大事な部分に積極的に関わりたいと思ったわけではありません。むしろ、そういうところに無防備に触れないために、そして一般の方にも足を不用意な形で踏み入れさせないためにオールアバウトをやるのだ、と信じ、サイトを作りあげてきました。オールアバウトの側も、わたしにそういうところにまで関わってもらいたくない、と思ったはずです。それゆえに、少なからぬ数のお弟子さんが所属していらっしゃる事務所『立川企画』とは別の事務所『談志役場』に所属なさっていらっしゃる立川流家元・立川談志師匠の公式サイトのリンクの交渉は、わたしと飯野さんとの話し合いの末、具体的にどういう経緯で行われたのかはちょっとわからないのですが、わたしが直接お願いするのではなく、オールアバウトの側から飯野さんを通して行われたはずなのです。

 わたしは、求人広告の代理店に勤めるひとりのOLでしかありません。サイトを分類・整理してコメントをつけることに関してはオールアバウトに専門家として認められたとしても、演芸業界の中での自分というのは専門家でも何ものでもない、ということは、自分自身がいちばんわかりすぎるくらいにわかっていました。ひとりの会社員でしかないわたしには、演芸業界の常識とタブーを知る術(すべ)がありませんでした。たとえば、ものをお願いする時にはこうすればいいんだよ、とか。そういうことを教えてくれるような人はどこにも誰もいらっしゃらなくて、また、教えてくれる場所などは、どこにもあるわけがありませんでした。それゆえに、いつも「大丈夫だろうか」という一抹の不安を抱えながら、会社員としての常識を最大限に大事にして、わたしは、週刊FSTAGEの取材を、オールアバウトの取材を続けてきたのです。

 そして、不安は想像を絶する形で的中しました。

 ひょっとして、わたしは、藤野さんとcabさんが大切に守りつづけようとしていらっしゃる何ものかに、サイトの情報を整理して並べる中で、不用意に触れてしまったのでしょうか。あの時の藤野さんの怒鳴り声の中には、小娘にでしゃばられた、という以上のただごとでない「何か」を感じさせるものが確かにありました。その「何か」が何であるか、ということに思いが至った時、わたしは本当に取り返しのつかないことをしてしまった、と思いました。しかも、それがわたしが電話に出なかった、ということで、よりその不快な感情を増幅させてしまったのだとしたら。

「演芸関係の方々とお会いする中でここの会社の名刺を渡した方もいらっしゃいますし、このままですと、わたしがここにいることで、この会社に迷惑をかけてしまいかねないか、と」
「それだけ大変なことなのか? 本当か?」
「・・・はい」

 わたしはひとりでした。小さなカフェの中で、ひとりですべてを背負っていました。

「いったい何を言ってるんだ? 会社というのはそういう場所じゃないんだ。何バカなこと言ってるんだ? とにかく、甘ったれてないで、きちんと連絡をとってあやまるんだ、わかったな!」

 広告代理店の次長として、言いたいことを言い尽くした彼は、カフェを出ました。わたしもあわててその後を追い、オフィスに戻りました。机の上に置かれたアクエリアスは、すっかりぬるくなっていました。わたしはそれを一気に飲み干し、営業から出されていた伝票を処理しました。

 終業時間はとうに過ぎ、常務が持ってきた箱が開けられていました。箱の中身は日本酒でした。ガラスのグラスに一升瓶から直(じか)に日本酒を注ぎ、それぞれの机で勝手な酒盛りが始まっていました。

「今月の売り上げが前年比を上回ったからな、社長からの差し入れだ!」

 差し入れのお酒は上等で、あまりお酒の味がわからないわたしにもおいしい、と思える味でした。ちびちびと、しかしふだんに比べれば大胆に、わたしは日本酒を飲みました。

「おい、大丈夫か?」
「ええ、大丈夫です。・・・ちょっとトイレ」

 アクエリアスとアイスモカが効いてきたのか、トイレが急に近くなりました。

「・・・本当に大丈夫か?」
「ええ、まあ」

 10分に一度はトイレに立ちながら、下戸のわたしはガラスのコップに口をつけ続けました。

「あんまり気にしちゃいけないぞ、なあ」

 しかし、何を「気にしちゃいけない」のか、そのことについては誰も何も口にしてはくれません。そのことが腹立たしく、酒を飲みながらむやみやたらに涙もあふれ、わたしはまたトイレに立ちました。

「お先に失礼します」

 オフィスでの飲み会がはじまってから1時間後。ひとりで会社を出た時には、わたしの酔いらしきものはほとんどさめていました。まっすぐ家に戻ったわたしは、ツイードの上着だけを脱ぎ、ジャージのワンピース姿のままで部屋の電気もつけず化粧も落とさないまま布団にもぐりこみ、つぶれるように眠りこみました。

(2003.10.4)
(つづく)


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