本来だったら、この日、わたしは、飯野さんと、寄席や演芸関係の方々のところに挨拶に行く予定になっていました。ですが、その予定は、朝の飯野さんからの一本のメールですべてなくなりました。飯野さんが、わたしをどこに連れていってくださる予定だったのかは、全く見当もつきません。4月18日のわたしの予定は全くなくなりました。まだ会社に行っていたほうが良かった。そんな後悔にさいなまれました。しかし、今さら会社に顔を出すのも間抜けです。
わたしは名刺を自分のお金で作っていました。本名の会社の名刺と、今まで使い続けてきた『@nifty週刊FSTAGE鳥袴(とりばかま)たつみ』の名刺で落語関係者の方々に会いに行くのは少々苦痛でした。本名でサイトガイドをやるのですから、ペンネームの名刺は自分を偽っているように思えました。かといって、勤めている広告代理店の名刺を出すのも違うように思います。そこで、挨拶をするならばオールアバウトの名前入りの本名の名刺が必要だと思ったわたしは、飯野さんに相談して許可をいただいた上で、わたしは、自分でオールアバウトのロゴ入りの名刺を作ることにしました。とはいえ、カラーで『オールアバウト』のロゴの入った名刺はなかなか出来上がりの連絡が来ませんでした。注文した文房具屋に詰問するように問い合わせたところ、どこかに注文票が行ってしまっただの何だのと言いわけをされて、ようやっと「17日にできあがります」との返事をもらいました。本来ならば、1週間ぐらいでできあがるはずのものが、2〜3週間近く後にずれこんでしまいました。ひとりで挨拶回りがしにくかったではないか。でも、まあ、サイトオープンの挨拶回りには間に合うからいいか。
「おいくらになりますか?」
「1万7千円です」
えっ。名刺100枚、せいぜい1万円前後だと思っていた自分には、その負担は大きすぎました。とはいえ、名刺は持たないわけにはいかないと思いました。しかし、その名刺もほとんど使えない状態になってしまいました。そして、もうこれ以上会社以外の用事のために有給休暇を使うわけにはゆきません。これから、わたしは、オールアバウトの取材を、いつ、どうやってすればいいのでしょうか。
土曜・日曜はもちろん会社は休みですが、それだけでは絶対に取材の日時が足りません。それに会社が休みの日は、できる限り体も休めたい。何のために名刺を作ったのかわからなくなりました。もちろん有給休暇そのものは残ってはいます。けれども、これ以上会社を休み、副業的なことで本業の広告代理店の営業事務としての仕事に支障をきたすわけにはゆきません。
家にいるのが激しく苦痛になりました。かといってどこに行けばいいものか、まったく見当もつきません。ここにはいられない。ネット喫茶も違う。もちろん寄席でもない。友人と言える相手はすべて落語に何らかの形でからまる、勤め人がほとんどです。そう思うと平日の昼間にむやみに電話もできません。家を出て、気持ちの抜け場になりそうな、自分に安らぎを与えてくれそうな空間を懸命に探しました。そして、わたしは、気づいた時には、四谷のお堀ばたに立っていました。
「よくやったね」「がんばったね」。
自分は、そういう言葉を求めて過剰なほどに必死にがんばっていたのだ、ということに気づきました。サイトさえオープンすれば、今までの努力は報われるに違いない。そう信じて、落語会にも行く時間も削り、迷惑をかけてはいけないと意識的に寄席・演芸に関わる友人にも極力連絡をとらず、会社の就業時間以外のすべてをサイト作成に賭けてきました。そうしなければいけないほどスケジュールはハードでした。
オールアバウトの選考を通過して、ガイドサイトを作りながらオールアバウトの方針を理解し、取材をしたりしてサイトガイドをやることが決定してから、オープンまでは2か月あまりしかありませんでした。すでにオープンしている他の方のガイドサイトを見て、この方々はどうやってサイトガイドに選ばれたのだろうか、と思いました。そして自分はこの方々のような充実した内容のリンク集を作ることができるのだろうか、そしてリンクの承諾ははたしていただくことはできるのだろうか、と少なからず不安に思いました。
本当だったらサイトオープンまでに半年ぐらいの時間がほしかった。他のサイトガイドの方々の話を聞いたり、演芸業界のさまざまな方々の話を伺ったりして、じっくりと時間をかけて準備をしたかった、というのが本音です。しかし、その時間をください、と申し出るほどのかけひきは、わたしにはできませんでした。融通やなあなあはきかない。それがリクルートという会社の方針なのだ、と会社での求人広告を作る仕事の中でわたしは理解していました。そして、そのことを十二分にわかった上で、サイトガイドとなることを選んだはずなのです。
呆然と下を走るJRの電車を眺めていると、PHSに電話が入りました。
「はい」
「もしもし〜」
「あー!」
のんきな声は、男ともだちの佐藤くんからのものでした。
「オールアバウトオープンしちゃったよ、見た?」
「いや、俺、iモードしか持ってないからあんまり良くわかんないんだけど」
「iモードでオールアバウト見れるの?」
「見ることはできるっすよ。ただ、画面が16分割ぐらいになっちゃって」
彼はお笑い好きではありますが、落語に関しては立川流以外の落語会にはほとんど興味を持たない、足を運ばないという人です。
「あ〜、どうしよう、オープンしちゃったよ、困った、あたし、大変なことやっちゃった」
わたしは固有名詞を伏せ、前日会社で昼休みに何があったかを短く話しました。
「そうですか、大変なんですね。大丈夫っすか?」
「そうよ、大変よ、ど〜しよう!」
「そうですか〜。ところで」
「はい?」
「木村万里(まり)さんの連載、今日、新聞に出てますよね」
「ああ、『お笑い採集記』」
「あのライブモニターに、新文芸坐のライブの募集、出てました? あれに行きたいんで名前貸してくれませんか? あれ、東京に住んでいないとだめでしょう」
「へ?」
演芸プロデューサーでお笑いエッセイストでもある木村万里さんによる連載コラム『お笑い採集記』は、毎日新聞の東京版にしか掲載されていません。だから、神奈川県に住む彼が、新聞の東京版に掲載されたライブモニターの募集記事に応募する、というのはいぶかしがられてしまうかもしれません。とはいえ。
「うーん・・・・わたしの名前出すのはさあ、いろんな意味でまずいんじゃない?」
「なぜですか?」
「なぜですか、って、あのねえ・・・」
説明に苦しみました。
そういえば、リンク集を必死に作っている最中に、佐藤くんから電話がかかってきたことがありました。「友達からメールが来たっすよ。毎日新聞に新文芸坐の寒空はだかさんのライブの招待の情報が掲載されるって。載ったら教えてくださいよ」 そんなことを言われたのを思い出しました。しかし、サイトオープンへのきついスケジュールとあまりもの忙しさの中で、そんなことはもちろん忘れていました。そして、いくら演芸に関して話すことのできる友達が他にいないからといっても、よりによって、こんな日に、こんな状態の時に、サイトに顔から名前から演芸業界のみならず全世界にさらけ出してしまったわたしの名前をお笑いライブのご招待に使うというのは、それは、やっぱり、あまりにも無謀だと思います。
「神奈川に住んでいてもいいから、東京に勤めている、とか何とか言って自分の名前で葉書出したほうがいいよ、絶対」
とか何とかいいながら、この日の毎日新聞の朝刊は、一読者としてコラムを読むべく、きちんと四谷駅の売店で購入をしてはいました。
「佐藤くんちにFAX・・・・ないよねえ」
「ありません」
「それじゃあ記事読むからさあ、メモとってね。『二十八日土曜日、夜中十一時五十分スタートの、“朝まで雑歌(ざっか)屋サン”ライブはいかが? 歌ってしゃべれる三組が集まります。ポカスカジャンは、楽器を持って現代版ボードビルとして一部で熱狂的な人気を得ているポカとスカとジャンのグループ、なあんてね』」
「そうでしたっけ?」
「さあ。『売れるにしたがって、衣装がめきめきこぎれいになっていく過程をウオッチングするのもひとつの楽しみ方。この日、よそで単独ライブを終了させてテンション高いままなだれ込む。寒空はだかはクチ三味線で微妙な笑いをふりまき、CD発売中の“東京タワーの歌”を歌うはず・・・』」
「うん、うん、うん」
「『もうひとりは元気いいぞう。長期渡米の噂あり。歌詞がどんなに過激でもいやじゃないのはなぜだろう。ピュアな心根が吟遊詩人と呼ばれるゆえん。池袋新文芸坐にて。モニター五名様』・・・ってあるんだけれどもさあ」
「この招待、ペアですかね?」
「いや、これは特に何も書いてないけど・・・・基本的にひとりじゃないかなあ?」
「もし二枚当たったら、一緒に行きませんか?」
・・・あの、こっちそれどころじゃないんだけど。
「五枚、とは書いてあるけれども、ペア、とはどこにも書いていないからねえ。『応募は一人につき一公演でお願いします』とはあるけど、枚数指定はないから微妙だなあ。でも、きっと一枚しか当たらないよ」
「何書けばいいんですか?」
故林広志(こばやしひろし)さんのイラストを口頭で説明するのに、かなりの時間がかかりました。
「あのねえ、犬を連れた人が坂の上にいるの。それでね、その人を坂の下にいる人が見送っているんだけど、その人も犬を連れているの。でもね、実はよく見ると下の人は『人の首に』首輪がついていて、犬がひもを持っているの」
「は〜。何て書けばいいんですかねえ。『も〜、困ったワン!』とか」
何というセンスのなさ。かといって、わたしもこういう状況の中、気の利いたひとことなど出るわけがありません。
「わからん!」
そこまで面倒みきれない。
「締め切りは明日、19日の消印有効だからね。今日中にポストに入れないとダメだよ」
用件は話し終えたのに、電話を切ることができませんでした。今、とりあえずわたしが何かを話すことができる相手は、状況を何もわかっていない彼しかいない、と思えました。
(2003.9.23)
(つづく)