夏井さんへの手紙


以下は、某リセットNという劇団のホームページの掲示板で、私のホームページでの書きこみに対する疑問を提示しておられた夏井さんに応える形で書きこんだものです。

「インターネット世紀のエンゲキ評論のカタチ」

まず最初に、自分のやっていることを整理して発表するチャンスを与えてくださったことにお礼を言います。ありがとう。そして、小丸は大丈夫です。すべての「大きなお世話」を気にしていません。平気平気。

問:創り手が批評することは許されるか>答:YES

たぶん夏井さんのおっしゃっているのは、単に批評することの是非、というより、言葉足らずの批評こそを問題にしているのだと思います。ということで、上記の問いを、以下の三つの段階で述べてみたい。

1、問:小丸は創り手か>NO
2、問:創り手が批評しても良いか>YES
3、問:創り手が言葉足らずの批評をしても良いか>YES

1、小丸は創り手か?

問題点は、「創り手」と「観客」の二つに分けることの無理を示しています。小丸さんの場合、ほんとに珍しいことに、創り手の面を持ちながらも(裏方やってます)、チラシとかを見ただけで芝居を見に行ったりします。あるいはえんぺやFSTAGEの評判を見て、芝居を見に行ったりします。創り手の人って、お友達の芝居は見に行くけど、全く知らない劇団を見たりしませんよね。全部が全部とはもちろん言えませんが、有名でも大評判でもない見知らぬ劇団を見に行くことって少ないでしょう。

その意味で私は純然たる観客でもあります。そして、多くの観客さんの感想を情報源として利用しています。ので、そのお礼の意味で私からの観客としての感想を発表するのは当然だと感じています。その際、私が得た「感想文」レベルの情報に対して、私も感想文レベルを提出します。だって、その感想文レベルでも十分役に立っているからです。

「私の感想文は観客としてのものだ」ということを証明したいのではありません。「創り手」と「受け手」とに分類することの問題を指摘したいのです。「分けられないでしょう」と。さらに言うなら、「創り手」のみなさんが「受け手」として発言なさることをとても期待しています。「受け手」になるべきだ(評価の定まっていない芝居を見るべきだ)と思います。そして可能であれば、感想を言って欲しいと思います。(言わなくても自由だと思うけど)

2、創り手が批評しても良いか

もちろん良いでしょう。お互いに批評すべきとも思うぐらいです。いえいえ、昔からそんなバトルはありました。いっぱいありました。それこそアングラの時代にはケンカもあったと聞いています。唐とか寺山とかって戦っていたんですよね。よく知らないけど。あと、90年代にも月刊テアトロ誌上でのバトルとかもありました。創り手は、自らのアイデンティティを守るためには、他を否定することだってあるはずです。もちろん、作品で示すことができる部分もあるでしょうが、舞台を降りてのバトルだって、どんどんやって欲しいものです。と言うか、名のある方は「言うべき」ではないのでしょうか。私みたいな無名のおやじがいい年してぶーぶー文句言っても、メインステージでは話題にもなりません(例えば「キャラメルボックス害悪論」とか「ヒーリング系エンゲキの気持ち悪さ」とか)。が、表舞台での発言力を持っていらっしゃる方の場合、ちゃんと取り上げてくださるでしょうから、きちんとした言い合いが期待できます。私は一方の「批評」を聞きたいわけではありません。批評というのは、反論が期待できるから楽しいんです。従って、「創り手の批評」というより、「創り手同士の批評し合い」が見たいんです。そのために「創り手の批評は認められる」のです。

「ちゃんと取り上げられる」可能性があることを期待しているのであって、「創っている人の意見だからえらい」と思っているわけではありません。「ああゆうの創っている人は、こういうのにはそう考えているんだ、ふーん」という参考情報を得るだけです。情報の価値はそんなに高くありません。バトル自体は楽しいでしょうが、まあ、演劇界のバトルですから小さい世界の話でしょう。でも、そこいらの音楽や映画とかよりはずっと濃いぃバトルが期待できます。

3、創り手が言葉足らずの批評をしても良いか

問題は「言葉足らず」というとこです。逆にいうと「十分な言葉を費やすもの」だけが批評といえるのでしょうか、と問いたい。いえいえ、「言葉は多いにこしたことはない」でしょう。より詳細な批評の方が、「役に立つ」のでしょう。でも、一つには、「少なくても役に立つ」のであり、「少ない方が読み易い」のだったりします。(もちろん、「たったの三行」の評価は、それだけで十分批評たり得るのだと思います。「語るに値しない」という評価は厳しいものですが、それはそれで有りです。認めます。私自身は、後述するように、もっと言葉を持ってはいるのですが、三行の時もあります。)

ポイントは二つ。一つは「創った側」にとっては、十分な言葉で批評してもらいたい、と思うのが当然であること(観客側は、少なくてもいい場合も多い)。もう一つは、「言葉足らず」が終わりではない、ということ。

前者は簡単に理解してもらえると思います。「批評するんなら、ちゃんと批評しろよ」って思いますよね。私もそういう意見があることは10年前から知ってます(^^;)。しかし、つまんない芝居を丁寧に批評するのって大変です。親切です。そこで、往々にして「十分な言葉で批評する」か「批評しない」かの二者択一を迫られるのです。が、「批評しない」というのは、私は「見なかった」と同じだと思うのですが、どうでしょう。そして、この二者択一が、いままでの一方通行メディア(か飲み会で批評するか)しかなかった時代には迫られたことだとしても、これからは違うんじゃないか、と思うのです。

それが「言葉足らず批評で終わりではない、始まりである」ということです。知ってて長文を今書いてますが、オンラインで長文を読むのは大変です。どっちかと言うと私は嫌いです。また、苦労して書いても、主旨が正確に伝わることはマレです。柄澤さんが意図的に誤読なさったように、往々にしてすっとこどっこいな解釈が登場します。今までの文化の影響なのですが、活字化されたものは「結論」として提示されたものと思ってしまいがちです。が、ネットの良さは双方向であり、コミュニケーションにあると私は知っています。従って、無理して100を述べ尽くさなくても、10を提示するところから始めてもいい、と理解しています。0は見なかったと同じなので、10を出すことに意義があると思います。とにかく、10では言葉が足りず、不快な思いをした人から反撃をくらう可能性があることを理解し、覚悟していればいいと思います。

まあ、覚悟なんかしなくて、気楽に10だけを書いてもいいと思うんです。そこから双方向のコミュニケーションが始まれば、それはそれで素晴らしいと思うんです。「不快な思いをした人が反撃のノロシを上げる」ことにとまどいます。「コミュニケーションすればいいのに」と思います。

私は、自分が作った作品を、たった10の言葉でけなされたとき、そしてそれがスルドイ批評であったと感じられたとき(10でもスルドイのはある)、その人に、次の11〜20の言葉を尋ねてみようと思います。まあ、実際にやりました。あと、私の観劇感想の10しかの言葉に対し、かつて劇団神馬というとこの方だけが、メールを下さいました。私はそれに対し、11〜30ぐらいの返事を出しました。いずれにしても、それ以降、反応はなかったんですけど・・・とほほ。

●●●というわけで●●●

ニフティやインターネットという双方向コミュニケーションインフラを手に入れた私達は、創り手と観客とメディアとエンゲキ評論家と裏方さん(技術屋さん)との間をボーダーレスに移動しながら発言できるようになった。発言しないことは「見なかった」ことと同じという過激な価値観がもうじき支配するようになる。同時に、ウンコもダイヤモンドも一緒に混じり合っている泥沼インターネットでは、スタンドアロンな発言のみで「すべて」とはならない。次のコメントと次の次のコメントで5割ぐらい理解できるようになる。「質より量」の時代には、「いいもの」を選択できる能力こそが重要であり、縦横に繋がることが最も重要になるのだと思う。それがネットワークリテラシー。繋がってください。

●●あと・・・●●

硬直化するエンゲキ界ですが、えらい評論家さんのコトバなんて何の役にも立たないと思っています。尊敬する扇田さんだって、井上ひさしの芝居を初めて見たとき、どう評価していいかわからなかった、とカムアウトしています。価値観の多様な観客の前で、こんだけ価値観の多様な芝居が現れると、特定の評論家さんの手には負えません。そこんとこを、いつくかのメディアとか演劇ライターの方は気付いていらっしゃいます。だから、質より量で始めるのだと思います。良質であることが望ましいが、まずはフィルターなしで全部提示してもらったほうがいいんです。大事なのは、エンゲキの外と繋がることでしょう。モノ創ってる人間で、クラブカルチャーに関心のない人っていないでしょう。映画とか音楽とかゲームとかも気になるでしょう。だって、観客はみんな見てるんだもの。そういうものとどんどん繋がって、ついでに代理店や政治家やインターネットメディアやテレビメディアとも繋がって、それでいて観客とも繋がる、そこにしか「打破」の道はないと思いますよ。まあ、私の意見の1〜10ぐらいですけど。

それではさようなら。(1999.7.27)




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